BFC2 感想 Dグループ

「字虫」  樋口恭介
 タマゴが先か、ニワトリが先か。眼球運動が活発だから字虫が寄生するのか、字虫が寄生しているから眼球運動が活発になるのか、その因果関係は分からない。
 このように人間の習慣・習性などについて、想像力を駆使して説明をくわえようという作品には見覚えがある(先行作品すら浮かばないのだけれど)。作品内では、先行研究や論文が紹介され、さらには字虫が視神経・シナプス・寄生虫と段階を分けて、発見されるプロセスが丹念に書き込まれており、字虫というものの存在を確かにしようという、力強い筆致を感じる。
 けれど、先に述べたように、字虫と読書家の間の因果関係ははっきりしない。
「字虫は眼球運動が活発な読書家に寄生しやすく、ゆえに読書家の眼球内を調べると、平均より多くの字虫が観測される。」
 人が本を読む理由とは何だろう。恐らくは説明できない。どれだけリアリティがあろうとも、この世にありもしないものを書くことはできないのではないか、そんなことを感じる作品だった。

「世界で最後の公衆電話」  原口陽一
 ぼくが、繋がりの失われた社会というテーマの批評なり言論なりを初めて読んでから、どれほどの月日が経ったのだろう。人の歴史とは、共同体の破壊と再構築なのかもしれない。
 今作には不思議とスマートフォンが登場しない。公衆電話発見の報を知らせるのは新聞の夕刊であり、航空機のチケットは旅行代理店から購入する。だが、ネットがないのかと思えば、公衆電話の子細な情報はネットに書き込まれている。
 想像するに、携帯電話のあまり発達しなかった世界なのではないか。「文字が災いのように地を覆う。誰もが聞くことを忘れているからだ。」という友人の言葉は、ぼくの想像を多少なりとも、応援してくれる。
 聞くことの忘れられた社会は、きっと、話すことも同時に忘れられた社会だろう。特に、この作品においては。それは、昆明空港についた時の描写でも分かる。
 彼が電話線主義者になったのは、誰かの声・話を聞きたいからではないか。「獲声器」の意味は、そのためにある。秘密は甘い。

「蕎麦屋で」  飯野文彦
 天丼は、繰り返しの技法のことだったか。
 「岡島百貨店」「だぶだぶの半袖シャツ」「への字の口」など最小限の言葉で紡がれた文章が、最後にそっと浮上する。このわずかな高揚はどうしてだろう。「ご馳走だね」という言葉は、母との対話の接ぎ木である。夕暮れに「奥義」へ向かうのも、またリフレイン。
 ああ、そういえば、蛇は永続性の象徴だったか。

 余談だけれど、ぼくの祖父母はぼくが中学に上がる前に亡くなっているので、自然と、再登場する祖父がかってに既になくなったものだと思っていた。影があるんだ、という一文、少し不穏に感じた。恐らくは、影がある、つまり、以前に蕎麦屋に向かった時と同じだ、ということの確認の意味なのだろう。

「タイピング、タイピング」  蜂本みさ
 どんな状況・不幸にも慣れてしまうのが、人間の幸運でもあり、不運でもあるのだろう。
 「世界から出し抜けに話しかけられると言葉を失くしてしまう。」と語ることが、既に彼女が言葉を取り戻している証拠であり、だからこそ、彼女の義理の指はタイピングをうつ手伝いをする。
 けれど、自分の境遇に慣れることはあっても、他人への感情を飼い慣らすのは、より困難を伴うだろう。
 きっかけは、リサイクルショップののぼりの文章を見たことだったに違いない。それがあなたを思い出させた。だから、手紙でも送るつもりになった。けれど、そこにじんわりと滲む感情は、割り切ったと言ってみせても、一筋縄ではない。
 ときに赤裸々で、ときに露悪的な文章が、鋭く刺さる。切れてつぶれた指の査定とは、本当はあなたに尋ねたいことだったのかもしれない。

「元弊社、花筏かな?」  短歌よむ千住
 清少納言が、春にあけぼのを発見したように、春に死を見る取り合わせ。それが新しいのか、定番なのかは分からない。けれど、春先の風が指先をこごえさせる感覚が、読むごとに広がっていって、残酷さとうつくしさの併存がきらきらと眩しかった。

 ところで、連作短歌について。Aグループの「新しい生活」にも思ったことだけれど、一つ一つの短歌の視点主が、同一であると考えればいいのか、別人だと考えればいいのか、とても迷う。
 恐らくはどちらでもいいのだと思う。視点主が切り替わり続けていても、それを編纂したという意味で、連作短歌、あるいは歌集の意義は保たれる。
 ただ個人的には、その広さが足を竦ませる。ただ、それだけ。

【追記】全編、春じゃないですね。(爆)

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