日記 3月29日

 詰め歯が取れたのだと思った。ちょうどラムネを食べていたから、あるいはその欠片だと。左の下の奥歯が欠けていると言われたのは、右の銀歯を埋めてから二週間後のことで、小学生のころに治療して以来、何もなかったのだけれども、噛み締め癖があるのを注意されていた矢先のことで、定年を過ぎてもう十年も経つ担当医は、やっちゃったね、と軽く言うのだった。
 何事も重く受け止めてしまうぼくは、ただでさえ銀歯を埋めたことがショックだった上に、もう片方も歯が欠けたとあっては、その日の晩御飯も食べたくないと思うくらいに落ち込んだ。欠けた歯の内側では静かに虫歯菌が繁殖を進めていて、深いところに根差したそれを削ったあとは、気分とは別に、ものを食べるということが億劫になる。新たに奥歯を埋めた樹脂に食べ物が当たると、痛みとも衝撃ともつかない、歯がゆさのようなものが口に当たる。あたたかいものも、冷たいものも、歯に染みる気がして、食べたくなかった。
 診察時間ギリギリに滑り込んだぼくに、受付の奥さんはいつものように、お大事に、と言って送り出してくれた。申し訳なさを感じる自分を嘲笑いたかった。時間外労働を嫌うぼくが他人には平然とそれを求めている。帰り道に寄ったスーパーではお弁当に半額シールが張られていた。何はともあれ腹は減る。ぼくと同じように半額弁当を狙ってやってきた客がレジに今日最後の行列を作る。他のレジスターは集計を終えて、閉め切られている。ぼくが物心ついたころから働いているであろうレジのおばちゃんは、閉店間際ということもあって、のろのろとレジを打った。特売日だったのだから、閉店間際なのだから、疲れているのだろうから、と言い訳が頭をよぎる。診察から今まで長く待ち続けていたからか、ひどく苛ついた気分だった。まだ火曜日だというのに。
 レジを待つ間、舌で奥歯を探った。樹脂のざらざらした感触が不快だった。本物の歯はもう少しつるつるしている。これに慣れる日も、いつかは来るのだろうか。
 レジは一向に進まない。半額のマグロ、カンパチ、イカの柵が二つ前の客のカゴに入っているのが見えた。カゴの底には缶ビールがある。
 店を出る頃には、レジに並んでから十分ほどが経っていた。交差点にブレーキランプがいくつも停まっていて、ようやく咲き始めた桜を赤く照らしていた。


 半分フィクション。お昼にめっちゃレジに並んだことだけ本当。あとは、継ぎ接ぎ。少なくとも今日の出来事じゃない。
 次の新人賞に出すやつの習作という感じ。コレジャナイ感がまだまだ強い。

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