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掌編 「静夜」

 緑色のことを、青いと言うことがあるけれど、ぼくはその言い回しが意外と好きだったりする。
 血の気の冷めたのを青い顔と言ったり、まだまだ未熟であるのを、青い奴と表現するのも、くすりと笑いを誘う感じがして好きだ。けど、緑がかった青色は、そんなに好きじゃない……。
 ぼくの好きな人が、夜明け色の青が好きだから。
 夜遅く、彼女から連絡があり、ぼくらは二人で星を見に行った。何と言ったか、流星群の近付いてくる日だったのだ。ぼくを迎えに来てくれた車の中は、彼女がいつも吸わない煙草の香りがして、ぼくはすぐに頬の赤い痕を見つけた。彼女は少し酔っているみたいだったので、車の運転を変わり、軽く彼女を叱った。ぼくのお説教を、彼女は黙って聞いてから、
「ちょっと眠らせて」
 と呟いた。
 目的地までは小一時間。カーステレオも点けないまま、ぼくは車を走らせた。彼女が眠っていなどいないことに気付いてはいたけれど、何かを話すことはなかった。時折、鼻をすする音がして、涙を拭うような仕草が、視界の端に映り、信号待ちで横を見ると、彼女は静かに窓の外を眺めているのだった。
 道が山へ入っていく。先にあるダムは星見や蛍狩りで少し名の通った場所だった。
「迷惑だったでしょ?」
 唐突に、彼女が呟いた。
「何が?」
 尋ね返すと、彼女はまた黙った。少し間をおいて、
「何かあったの?」
 と聞くと、
「別に」と彼女が返す。
 儀式みたいなものだ。言葉を費やせば、ぼくらの関係は壊れてしまう。ぼくらは分かった振りをし続け、何も語らないことで、お互いの最も良き理解者になる。今もぼくが彼女の一番近くにいられるのは、この言葉の少なさ故なのだ。
「着いたよ」
 ん、と短く答えたのを聞いてから、エンジンを切った。一瞬、静寂が満ちて、木枯らしが枯葉を鳴らした。
「行かないの?」
 首を振った彼女の髪が、星灯りを受け、天の川を流したように、さらりと揺れた。
「こんなの裏切りだって、分かってるんだ」
「ユウ?」
「今日ね、彼と喧嘩したんだ。だから、トモを呼んだの」
 ぼくはユウの手を取った。それ以上、何も言ってほしくなかった。聞けば、この関係が壊れてしまう。例え、好きな人が別の誰かと付き合っていても、ぼくはその人の側にいられるのなら、何だっていいのだ。
「……キス、しようか?」
 答えるより先に、ユウはぼくへ口づけした。ぼくの取った手を、強く握り返して。
「誰にでもする訳じゃないよ?」
 くらやみに慣れた目は、不安そうなユウの目を見つけてしまう。誰よりも暗く、底を見せない瞳は、そこから夜が溢れると錯覚するほど、色がない。まるで読み取られることを拒否するように、瞳はまっさらな黒であり続ける。ぼくはまだ、どこかで引き返せると信じていた。
「ぼくだって、誰にでもついていく訳じゃない」
 そうして、触れた彼女の頬は、驚くほど熱く、誘われたと気付くのに、時間はいらなかった。
「うれしい」
 そう言って、彼女は笑った。夜のくらやみによく映える唇で、真っ赤な嘘を滴らせる。もう一度、重ねた唇は甘く、奥まで探りたいという欲を我慢できない。そして、触手を伸ばした先で……。
「痛かった?」
 うそぶくユウは、白い歯を見せつけるように笑う。それでも彼女は、もう一度、を求めてきて、口から垂れる血は、白く泡立つのか、滴り落ちて暗闇に溶けていくのか、予想もつかない。
 視界には、彼女の黒髪と、そこから覗く白い首筋が浮かぶ。全ては星灯りの中で、モノトーンに脱色された偶像でしかないのに、ぼくは彼女から離れられない。いや、初めから離れるつもりなんてなかったのかもしれない。

 夜は白く明けていく。結局、流れ星を見ることはなかった。
 ぼくとユウは一つの毛布にくるまって、車の小さな窓から空を見上げる。
「私、夜明けの空が一番、好き」
 彼女が指差すのは、朝と夜の境界。深い深い青が、宵闇と白日の混血として表れる。
「あの青色が好きなんだ」
 彼女の差す方をじっと見つめたけれど、それが果たして、彼女の言う青色なのか、自信がなかった。
 夜明けの空は刻一刻と色を変え、波のように寄せては返し、その明暗を自由にする。幾重にも重なった雲と空のグラデーションは、はっきり何色と答えられないくらい複雑なのだ。
 夜のベール、と言うように、ぽろぽろと剥がれていく空は、まるで地層のようにブルーを重ねた画布なのだから。

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