感想 「灰は灰へ、塵は塵へ」

 スマホを開いて、検索窓に「プレミエ」と入れる。ウィキペディアのページをクリックすると、おおむね「初演」という意味だと分かる。プレミア試写会のプレミアとほぼ同じ意味だという旨、了解する。シェアードワールド企画である今作品が、つまりは再演ということだろうか、と思い至り、笑みをこぼす。次いで、「アロイス」を検索窓へ入れる。馴染みのない名だ。かろうじて、アロイーズは知っているような気がする。きっと悪女だ。「ノヴァーク」も検索にかける。東ヨーロッパ系の姓と知る。何故だか頭の中にアレクセイが出てくる。アレクセイ・ノヴァク、とググるが、それらしいものは出なかった。こんな連想を書き連ねているうちに感想にならないだろうか、と思う。ならない。

 会話が「」でくくられていない。文章は三人称だが、ヨハンの声が絶えず聞こえているので、一人称のような気分になる。実際、文章は三人称と一人称の境界を行ったり来たりしている。そのせいか、テンポがいい。というところまでを書いて、ぼくはトイレに立った。長い時間パソコンの前で座っていたので、腰が痛い。ぼくは階段を下りていく。
 ああ、ちくしょう。もう十時だ。
 戻ってきた彼はディスプレイの右下に表示されている時計に悪態をついた。彼は明日、三十分早く出勤しなければならない。
 閑話休題。
 シェアードワールド企画の応募作をいくつか読んで、「となりあう呼吸」のもっとも派手なギミックをどう再現するのかという点が、それぞれの応募作の強みになっていたような気がする。自分もそこに挑戦した。原作再現を自負していたけれど、他の作品を読むうちに自信がなくなった。どれも似ているようで、少しずつ違っている。それがそれぞれの読みの違いであったり、挑戦の証であったりするんだろう。原作に対する反発もあったと思う。とても面白かった。
 シェアードワールドの強みは、裾野の広さにあると思う。ここが原作要素! と挙げることにはあまり意味がないのかもしれないけれど、それが十も二十も重なると意味を成すこともあると思う。
「灰灰塵塵」における、そういった部分の一部は恐らく移人称が担っている。もちろん他にもある。「となりあう呼吸」を読んだという経験が、二次創作という表現になってあらわれている(と思う)ので、その辺りも読めたら面白いのではないかな!

 ヨハンは歌が上手い。一度聞いた歌をそらで歌うことができるし、想像した音を自分の身体をコントロールして取り出すことができる。冒頭の白金の指輪の音だ。それはすごい才能なのじゃないか、とぼくは思う。それとも、音楽家はそういう能力をみな持っているのだろうか。ぼくは楽器演奏に憧れを持っていて、オタマトーンを買ったりもしたけれど、三日もたなかった。そんなぼくからすると、音を想像して、そこに自分をチューニングするというのは、ありえないことに思える。まず音を頭の中で鳴らすことができないのだ。
 とにかく、アロイスはヨハンによってガラスの檻から解放される。それが、ヨハンが想像した音だということが、すごく美しいと思う。想像することの価値は、いまここにはないものを作り出すことだと思う。ぼくはそう読んだので、アロイスが故郷への旅路を進んでいくことが、とてもきらめいて見える。想像することのできるヨハンが、アロイスをいまここではない場所へ連れ出していく。

 舞台演出の話が細々出てくる。ルサルカが参考元とのこと。湖面の表現は「となりあう呼吸」でも出てきた要素。それが作者のオペラ趣味と交わって、独自性をかもしているのは滋味深いこと。そして、個人的には、そういった文化の香りの中に労働の汗臭さがあることが、何よりうれしい。スノッブでありながら(憧れながら)あくまで視点は市井(というと左翼臭いけど)の一労働者というのがやっぱりうれしい。
 別にイデオロギーの話をしているわけではないです。作品の中に自分の生活が感じられることが作品への親近感につながる、的な話をしています。
 いや、違う。高等遊民になりたくて、なれなかった恨みつらみの話をしています。

 喉の交換。見逃しがあるかもしれないですけど、アロイスからヨハンの声への言及はあるけれど、ヨハンがアロイスの声をどう思っているのかというのは、人称の巧みな操作でぼやかされている。
 アロイス・ノヴァークは一番人気のテノール歌手で、体格に見合わない声量が魅力だ、と三人称で書かれており、アロイスの声が「安らぎ」や「癒し」を与えると続いていく。一連の文章の末尾は「ヨハンは想像する」であり、三人称で語られていた内容がどこかでヨハンの想像に切り替わっている。と考えると、もしやヨハンはアロイスの声を、ハンマーのような、何かをぶち壊す道具として魅力的だと考えているのではないですか……?
 実際、作品の冒頭ではヨハンの自分の身体への無頓着さが描写されていて、自分の喉なんてあげてもいいや。代わりに人を爆発させられる声が手に入るし、くらいのことを考えていても不思議じゃないとぼくは思うんですが、どうでしょう。

 物語後半、支配人の策にはまり、声で自壊したヨハンの競作していく視野にフォーカスを合わせていく文章が上手いなあと思う。カメラ(と便宜上呼ぶ)がヨハンの視界にぴったりと張り付いていて、視野がぼやけているので、はっきりと何が起こったのか定かではない。けれど、そこに声が入ると、ぱっと世界が広がるような心地がして面白い。アロイスとの問答を経て、ヨハンの意識がはっきりしてくると、カメラが離れて、また三人称に戻り、水槽内部の描写がなされる。その文章の押し引きとでもいうようなものが、自然であるというのは、やっぱり世間的には文章が上手いというのだろうなあ(もっと別の褒め言葉を使いたいのですけど、思いつかないのです)。

 最後にヨハンが歌う歌。ヨハンがアロイスの声で歌う、アロイスの歌。
 もうここで二人は溶け合っているのだなと分かる。
 この部分は余計なことを言いたくない。ぜひ読んでほしい。

母さんはよく歌を教えてくれたけど、
変だと思ったんだ、よく涙ぐんでいたから。

暴力と破滅の運び手「灰は灰へ、塵は塵へ」




 余談ですが、ぼくはこの小説を、暴力と破滅の運び手さんの新作えっち小説が読めると思い、親のクレジットカードを借りて、先行公開で読みました。来週の土曜日に一般公開されるそうです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?