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原書講読 WALTER BAGEHOT『PHYSICS AND POLITICS』1-1


はじめに

年が明けて何か新しいことをと思い、原書講読をしてみることにしました。

何を読もうかと思いましたが、19世紀のイギリスのジャーナリストで、保守思想の大家として知られるウォルター・バジョットの『PHYSICS AND POLITICS』にしました。

どうせ読むなら読む価値がありそうで、著作権が切れていて、手に入らなそうな本がいいかなと思ったくらいで、その他に理由はありません。

ChatGPTやDeepLをはじめとした無料で使える翻訳ツールの進歩は、数年前と比べたら信じられないほどです。本書は5.7万語くらいあるらしいですが、これを1ヶ月で読み切ることなど以前では考えられないことでした。入手しずらくなってしまった人類の遺産を理解するために、どれだけ有益なのだろうと思います。

テキストはプロジェクトグーテンベルグにあったのでそれを使いました(https://www.gutenberg.org/cache/epub/4350/pg4350-images.html)。他にもいくつかネットの海に落ちていましたが、何がどう違うのかとか、現状、何も気にしてません。

〔〕で私の解釈を挿入しまくりました。ちなみに()の方は注釈的な意味と、原文であったのと2種類あります。日本語の文章にダッシュを使って良いものなのかもわからなくて、()にしました。

クオーテーションマークは、当時はおおらかで閉じなかったらしいんですけど、どこからどこまでが引用なのか私が勝手に決めていいのかもよくわかんないので、とりあえずいじるのをやめました。さらに、訳文が日本語としておかしい気がした場合、訳出しなかった単語もあります。

原文に【】でついている見出しは私がつけたものです。noteの目次機能を使わないのももったいないし、原文はごちゃっとしてるんでそうしようと思いました。

各章は一つ一つが独立したessay(論文)ですが、原則として「章」と訳しました。論文なので「だである」調で訳すべきなのかもしれませんが、「ですます」調の方が、バジョット先生が講義しているみたいでいいなと思ったのでこっちにしました。

以上のようにだいぶ適当なので、翻訳というよりは読書メモのようなものだと思っています。

バジョットほどの知性が、筋の通らないことや意味不明なことを述べるわけがないんで、なぞなぞを繰り返してるような気持ちになりました。

「なんか違うな」と感じながら進めていくと、ふと、その違和感を解消する方法を閃く瞬間が来て、「解けたぜ、この謎ときが」って感じになってましたが、もしかしたら全然解けてないかもしれません。

誤訳もたくさんあると思います。バジョットの該博な知識が随所に出てきて、私の目は白黒していたことでしょう。

見落としもいっぱいあると思います。現在からみると、差別的な表現もあってそこをどうするのかも悩ましいと思っています。

国会図書館で絶版本を閲覧できるサービスにより、1948年に出版された大道安次郎先生の訳を見ることができました。このサービスも、先達の残してくれた足跡も、本当に素晴らしいです。いざ、自分で訳してみるとても難しいものです。

また、ネットに落ちてる諸々の研究には教えられる面も多々ありましたが、バジョットも英語も般卓民なので、全然咀嚼しきれていない感じがします。ただ、山根聡之さんの研究は私のような者にも素晴らしいものだと思えました。

あと多分、断りなくちょこちょこ直します。


PHYSICS AND POLITICS

OR THOUGHTS ON THE APPLICATION OF THE PRINCIPLES OF'NATURAL SELECTION' AND 'INHERITANCE' TO POLITICAL SOCIETY

BY WALTER BAGEHOT

『自然科学と政治学』

政治社会に「自然選択」と「遺伝」の原理を適用するための考察

ウォルター・バジョット著

第一章

THE PRELIMINARY AGE.

準備の時代

One peculiarity of this age is the sudden acquisition of much physical knowledge.

現代の特徴の一つは、突然、多くの自然科学の知識が獲得されたことです。

There is scarcely a department of science or art which is the same, or at all the same, as it was fifty years ago.

科学や技術の分野で、50年前と同じもの、あるいは全く変わらないものなどほとんどありません。

A new world of inventions—of railways and of telegraphs—has grown up around us which we cannot help seeing; a new world of ideas is in the air and affects us, though we do not see it.

鉄道や電信といった発明による新しい世界が、私たちの周囲で成長し、目にしないことなどできなくなっています。

新しい発想(こちらは目には見えません)が広まり、影響を与えているのです。

A full estimate of these effects would require a great book, and I am sure I could not write it; but I think I may usefully, in a few papers, show how, upon one or two great points, the new ideas are modifying two old sciences—politics and political economy.

これらの影響をきちんと評価するには、私のような者には書くことのできない大著が必要でしょう。

ただ少なくともこの新しい発想が、いくつか重要な点で、政治学と経済学という二つの古い学問をどのように修正しているかを、数本の論文を通じて示すことができると私は考えています。

Even upon these points my ideas must be incomplete, for the subject is novel; but, at any rate, I may suggest some conclusions, and so show what is requisite even if I do not supply it.

〔ただ、〕これらの点についてさえ、私の考えは不完全であるに違いありません。なぜなら、このテーマが全く新しい分野だからです。

しかし、いずれにせよいくつかの結論を示唆することはできるでしょうし、たとえ完全にはそれを提供できなかったとしても、何が求められているのかは示せるでしょう。

If we wanted to describe one of the most marked results, perhaps the most marked result, of late thought, we should say that by it everything is made 'an antiquity.'

最近の思想の一番目立った成果、いやおそらく唯一の成果かもしれませんが、〔それは〕あらゆるものが「過去の遺物」になったと言えることです。

When, in former times; our ancestors thought of an antiquarian, they described him as occupied with coins, and medals, and Druids' stones; these were then the characteristic records of the decipherable past, and it was with these that decipherers busied themselves.

その昔、私たちの先祖が古物商を思い浮かべたとき、彼らは古物商を、コインやメダル、ドルイドの石〔の解読〕に夢中になっている人と描写しました。

それらは当時、解読し得る過去についての象徴的な痕跡でしたし、解読者たちも没頭していました。

It would be tedious (and it is not in my way) to reckon up the ingenious questionings by which geology has made part of the earth, at least, tell part of its tale; and the answers would have been meaningless if physiology and conchology and a hundred similar sciences had not brought their aid.

〔例えば〕地質学が地球の一部に、少なくともその歴史の一部を語らせるまでに至った巧妙な質問を列挙することは面倒でありますし(また、それは私の方法でもありませんが)、その質問に対する回答も、生理学や貝類学、その他の何百もの似たような科学が手を貸さなければ、何の根拠も持たないものでしょう。

Such subsidiary sciences are to the decipherer of the present day what old languages were to the antiquary of other days; they construe for him the words which he discovers, they give a richness and a truth-like complexity to the picture which he paints, even in cases where the particular detail they tell is not much.

現代の解読者にとってこれらの補助的な科学は、かつての時代の古物商にとっての古言語と同じようなものなのです。

これらの科学は、解読者が発見した言葉を解釈して真実を与え、解読者が伝える詳細がそれほど重要でない場合にも、解読者の描く絵(全体像)に豊かさと複雑さを添えます。

But what here concerns me is that man himself has, to the eye of science, become 'an antiquity.'

しかし、私がここで強調したいのは、人間それ自体まで、科学の目から見て「過去の遺物」になってしまったことなのです。

She tries to read, is beginning to read, knows she ought to read, in the frame of each man the result of a whole history of all his life, of what he is and what makes him so,—of all his fore-fathers, of what they were and of what made them so.

科学はそれぞれの個人という観点からその人の生涯を、彼が何者であり、何が彼をそうさせるのか、また、先祖代々彼らが何者であり、何が彼らをそうさせていたのかを読もうとしています。〔少なくとも〕読むべきであることは理解しており、また〔実際に〕読み解こうとしています。

Each nerve has a sort of memory of its past life, is trained or not trained, dulled or quickened, as the case may be; each feature is shaped and characterised, or left loose and meaningless, as may happen; each hand is marked with its trade and life, subdued to what it works in;—IF WE COULD BUT SEE IT.

それぞれの神経には過去の生活の一部が記憶されており、状況によっては鍛えられてたり鍛えられてなかったり、鈍くなってたり鋭くなってたりするかもしれません。

それぞれの〔体の〕部位は変形したり特徴づけられたりするし、あるいは大した変化もなく意味のないままかもしれません。

〔例えば、〕手には仕事や生活の跡がついているかもしれません。〔その跡を〕見ることができればの話ですが。

It may be answered that in this there is nothing new;
that we always knew how much a man's past modified a man's future; that we all knew how much, a man is apt to be like his ancestors; that the existence of national character is the greatest commonplace in the world; that when a philosopher cannot account for anything in any other manner, he boldly ascribes it to an occult quality in some race.

この〔人間を過去の遺物と見る〕点は何も今に始まったことではないと指摘されるかもしれません。

〔たしかに〕私たちは常に、人間の過去がどれほど人間の未来を変えるかを知っていましたし、〔例えば〕人が祖先に似る傾向があることも知っていました。

〔この遺伝の結果の〕国民性というものは最もありふれたものです。哲学者など他の説明ができない場合、問題を特定の民族の特性に帰すこともあるくらいですから。

But what physical science does is, not to discover the hereditary element, but to render it distinct,—to give us an accurate conception of what we may expect, and a good account of the evidence by which we are led to expect it.

とはいえ、自然科学の役割は、遺伝という現象を新しく見つけてくることではなく、遺伝の持つ機能や影響を明確にすることにあります。

〔言い換えれば〕私たちが期待できるものについての正確な概念を提供し、その根拠について十分な説明を与えることなのです。

Let us see what that science teaches on the subject; and, as far as may be, I will give it in the words of those who have made it a professional study, both that I may be more sure to state it rightly and vividly, and because—as I am about to apply these principles to subjects which are my own pursuit—I would rather have it quite clear that I have not made my premises to suit my own conclusions.

というわけで、科学がこのテーマ〔遺伝〕について何を教授しているのか見てみましょう。その際、私はできるだけ、専門の研究者たちの言葉で述べようと思います。

〔それは何よりも〕より正確かつ明確に〔事実を〕伝えるためであり、同時に、これらの〔遺伝の〕原則を私自身の追求する対象に適用するつもりでいますので、私が自分の結論に合わせて都合よく前提を設定しているわけでないことをはっきりさせたいからです。

1st, then, as respects the individual, we learn as follows: 'Even while the cerebral hemispheres are entire, and in full possession of their powers, the brain gives rise to actions which are as completely reflex as those of the spinal cord.

第一に、個体に関しては次のことがわかります。

大脳半球が完全に機能し、十分にその力を発揮しているときでさえ、脳は脊髄反射とまったく同様に、反射的な行動を引き起こします。

'When the eyelids wink at a flash of light, or a threatened blow, a reflex action takes place, in which the afferent nerves are the optic, the efferent, the facial.

閃光や打撃による威嚇で瞬きをすると、視神経は求心性神経により、顔面神経は遠心性神経によって反射作用が起こります。

When a bad smell causes a grimace, there is a reflex action through the same motor nerve, while the olfactory nerves constitute the afferent channels.

悪臭で顔をしかめると、同じ運動神経を介して反射作用が生じ、嗅覚神経が求心路(※情報の伝達路)を形成します。

In these cases, therefore, reflex action must be effected through the brain, all the nerves involved being cerebral.

したがって、これらのケースにおいて反射作用は脳を介して行われる必要があり、関係するあらゆる神経は脳に由来します。

'When the whole body starts at a loud noise, the afferent auditory nerve gives rise to an impulse which passes to the medulla oblongata, and thence affects the great majority of the motor nerves of the body.

大きな音に全身が反応すると、求心性聴覚神経に衝動が生じ、それが延髄に伝わり、そこから全身の運動神経の大半に影響を与えます。

'It may be said that these are mere mechanical actions, and have nothing to do with the acts which we associate with intelligence.

これらは単なる機械的な行為であり、知性に関連付けられる行為とは何の関係もないと言えるでしょう。

But let us consider what takes place in such an act as reading aloud.

では、音読のような行為で何が起こるのか考えてみましょう。

In this case, the whole attention of the mind is, or ought to be, bent upon the subject-matter of the book; while a multitude of most delicate muscular actions are going on, of which the reader is not in the slightest degree aware.

音読の場合、意識は全て本の内容に向けられるべきです。

同時に、朗読者は全く気づかないでいますが、極めて微細な筋肉の動作が行われています。

Thus the book is held in the hand, at the right distance from the eyes; the eyes are moved, from side to side, over the lines, and up and down the pages.

このように、本は目から適切な距離で手に掴まれ、目は行を左右に、またはページを上下に移動します。

Further, the most delicately adjusted and rapid movements of the muscles of the lips, tongue, and throat, of laryngeal and respiratory muscles, are involved in the production of speech.

さらに、唇、舌、喉の筋肉、喉頭筋、呼吸筋の最も繊細で素早い動きが、発声に関与しています。

Perhaps the reader is standing up and accompanying the lecture with appropriate gestures.

朗読者は立ち上がり、講義に適切な身振りを添えているかもしれません。

And yet every one of these muscular acts may be performed with utter unconsciousness, on his part, of anything but the sense of the words in the book. In other words, they are reflex acts.

にもかかわらず、彼にとってこれらの筋肉の活動の一つ一つは、本の言葉の意味以外は全く無意識のうちに行われます。

つまり、これらは反射的な行為なのです。

'The reflex actions proper to the spinal cord itself are NATURAL, and are involved in the structure of the cord and the properties of its constituents.

脊髄自体に備わった反射行為は自然であり、脊髄の構造や構成要素の特性に関連しています。

By the help of the brain we may acquire an affinity of ARTIFICIAL reflex actions.

脳の援助によって、私たちは人工的な反射作用による適応力を身につけます。

That is to say, an action may require all our attention and all our volition for its first, or second, or third performance, but by frequent repetition it becomes, in a manner, part our organisation, and is performed without volition, or even consciousness.

つまり、ある動作を初めてあるいは2回目や3回目に行う際には、大変な注意と意志を必要とするかもしれませんが、頻繁に繰り返すことで、ある意味で私たちの組織の一部となるため、最終的に意志や意識なしで実行できるようになるのです。

'As everyone knows, it takes a soldier a very long time to learn his drill—to put himself, for instance, into the attitude of 'attention' at the instant the word of command is heard.

ご存知のように、兵士が訓練で、例えば、命令が聞こえた瞬間に「注意」の姿勢を取るのには非常に長い時間がかかります。

But, after a time, the sound of the word gives rise to the act, whether the soldier be thinking of it or not.

しかし、しばらくすると、兵士が意識していようといまいと、その言葉の響きが「注意」の姿勢を引き起こすようになります。

There is a story, which is credible enough, though it may not be true, of a practical joker, who, seeing a discharged veteran carrying home his dinner, suddenly called out 'Attention!' whereupon the man instantly brought his hands down, and lost his mutton and potatoes in the gutter.

除隊した退役軍人が夕食を持ち帰るのを目にした瞬間に「注意!」と叫んだところ、その軍人は即座に手を下ろし、羊肉とジャガイモを側溝に落としてしまったという話もあります。

The drill had been gone through, and its effects had become embodied in the man's nervous structure.

訓練し尽くされた効果は彼の神経構造に刻み込まれていたのです。

'The possibility of all education (of which military drill is only one particular form) is based upon, the existence of this power which the nervous system possesses, of organising conscious actions into more or less unconscious, or reflex, operations.

あらゆる教育(軍事教練もその一環です)の可能性は、神経系が持つこの力に基づいています。

すなわち、意識的な行動を多かれ少なかれ無意識あるいは反射的な操作に組み込む能力です。

It may be laid down as a rule, that if any two mental states be called up together, or in succession, with due frequency and vividness, the subsequent production of the one of them will suffice to call up the other, and that whether we desire it or not.'

これは、任意の二つの精神状態が、適切な頻度と鮮明さで、同時にまたは連続的に呼び起こされる場合、そのうちのいずれか一方を呼び起こすだけで、もう一方も呼び起こされるようになるという法則として定式化できます。〔これは〕私たちが望むと望まざるとにかかわらずです。

The body of the accomplished man has thus become by training different from what it once was, and different from that of the rude man; it is charged with stored virtue and acquired faculty
which come away from it unconsciously.

鍛えの入った人間の肉体は、訓練によってこのように、かつての状態や未熟な人間の肉体とも異なるものになります。蓄積された技術(virtue)や能力によって満ちており、それが無意識に現れるのです。

Again, as to race, another authority teaches:—'Man's life truly represents a progressive development of the nervous system, none the less so because it takes place out of the womb instead of in it.

さて、人種についてですが、別の権威によれば、「人間の一生というのは、胎内ではなく胎外で発達するだけで、神経系が漸進的に発達する過程と全く同じである」と教えています。

The regular transmutation of motions which are at first voluntary into secondary automatic motions, as Hartley calls them, is due to a gradually effected organisation; and we may rest assured of this, that co-ordinate activity always testifies to stored-up power, either innate or acquired.

最初は意識して行う動作も、ハートリーが言うように、次第に無意識に行う動作へと変化していきます。これは、徐々に形成される組織によるものです。

したがって、調整された活動(co-ordinate activity)というものは、生得的であろうと後天的であろうと、蓄積された力の証明であると言えます。

'The way in which an acquired faculty of the parent animal is sometimes distinctly transmitted to the progeny as a heritage, instinct, or innate endowment, furnishes a striking confirmation of the foregoing observations.

親個体が苦労して獲得した能力が、子孫に遺伝や本能、生得的な資産としてはっきりと伝わることは、前述の観察を見事に裏付けるものです。

Power that has been laboriously acquired and stored up as statical in one generation manifestly in such case becomes the inborn faculty of the next; and the development takes place in accordance with that law of increasing speciality and complexity of adaptation to external nature which is traceable through the animal kingdom; or, in other words, that law, of progress from the general to the special in development which the appearance of nerve force amongst natural forces and the complexity of the nervous system of man both illustrate.

ある世代で苦労して獲得され、ささやかに蓄えられた能力は、このような場合、次の世代では生まれつきのものとなります。

このような進化は、動物界全体を通して追跡できるもので、とりわけ特殊性と、環境への適応が複雑化していく法則に従います。

言い換えれば、動物界における進化とは、一般的なものから特殊のものへと進化する法則であり、〔例えば、〕神経の働きは自然の中で、他の自然の力と共に現れますし、また人間の神経系の複雑性も同様にその法則を示しています。

As the vital force gathers up, as it were, into itself inferior forces, and might be said to be a development of them, or, as in the appearance of nerve force, simpler and more general forces are gathered up and concentrated in a more special and complex mode of energy; so again a further specialisation takes place in the development of the nervous system, whether watched through generations or through individual life.

生命の力は、言わばそれ自体に劣った力を取り込み、神経の力の発現と同じように、より単純で一般的な力に集約され、さらに特殊で複雑なエネルギーの形態に進化〔特殊化〕します。

同様に(so again)、神経系の発達は、世代を通して観察されるものであれ、個々の人生を通して観察されるものであれ、さらなる特殊化が進みます。

It is not by limiting our observations to the life of the individual, however, who is but a link in the chain of organic beings connecting the past with the future, that we shall come at the full truth; the present individual is the inevitable consequence of his antecedents in the past, and in the examination of these alone do we arrive at the adequate explanation of him.

しかし、より完全な真理に迫るには、個々の人生だけでなく、連綿と続く生命の連鎖(a link in the chain of organic beings)に注目する必要があります。

現在の個人は、過去の出来事や環境から生じた必然の結果なのであり、これらを詳しく調査することで、彼を十分に説明できるからです。

It behoves us, then, having found any faculty to be innate, not to rest content there, but steadily to follow backwards the line of causation, and thus to display, if possible, its manner of origin.

それゆえ、ある能力が生得的なものであることが確認されたらそこで満足するのではなく、むしろ因果関係の経路を着実に辿り、可能であればその起源の様相を明らかにすべきなのです。

This is the more necessary with the lower animals, where so much is innate.'

この点は、多くが生得的である下等動物にあってはなおさら重要です。

The special laws of inheritance are indeed as yet unknown. All which is clear, and all which is to my purpose is, that there is a tendency, a probability, greater or less according to circumstances, but always considerable, that the descendants of cultivated parents will have, by born nervous organisation, a greater aptitude for cultivation than the descendants of such as are not cultivated; and that this tendency augments, in some enhanced ratio, for many generations.

遺伝の特殊法則は未だ完全には解明されていません。解明されていることのうちで、かつ私の主張にとって重要な点は、状況によって異なりますが、いつもかなりの程度、発達が促進された親の子孫は、生まれつきの神経組織によって発達が促進されなかった親の子孫よりも、発達の促進に対する適性が高い可能性がある点です。そして、この傾向は何世代にも渡って、ある程度の割合で強化されます。

I do not think any who do not acquire—and it takes a hard effort to acquire—this notion of a transmitted nerve element will ever understand 'the connective tissue' of civilisation. We have here the continuous force which binds age to age, which enables each to begin with some improvement on the last, if the last did itself improve; which makes each civilisation not a set of detached dots, but a line of colour, surely enhancing shade by shade. There is, by this doctrine, a physical cause of improvement from generation to generation: and no imagination which has apprehended it can forget it; but unless you appreciate that cause in its subtle materialism, unless you see it, as it were, playing upon the nerves of men, and, age after age, making nicer music from finer chords, you cannot comprehend the principle of inheritance either in its mystery or its power.

「〔親から子へと〕伝達される神経要素」という概念を理解しない者に、文明という「結合した組織」のことを真に理解することはできないでしょう。この概念は簡単には身につかないものです。

文明の発展は、世代と世代をつなぐ絶え間ない力であり、前の世代が進歩したのであれば、次の世代はさらに進歩した状態から始めることを可能にします。これは、文明をバラバラな点の集合ではなく、段階的に濃さを増していくグラデーションとして捉えることを意味します。

この説明によれば、世代を超えた進歩には物理的な原因があり、それを真に理解した者は忘れることなどできません。

しかし、その原因を精妙な物質性において理解し、それがあたかも人々の神経に触れ、時代を超えて、より繊細な弦からより洗練された旋律を生み出す様子として捉えなければ、遺伝という原理を神秘性と力の両面において、真に理解することはできません。

These principles are quite independent of any theory as to the nature of matter, or the nature of mind. They are as true upon the theory that mind acts on matter—though separate and altogether different from it—as upon the theory of Bishop Berkeley that there is no matter, but only mind; or upon the contrary theory—that there is no mind, but only matter; or upon the yet subtler theory now often held—that both mind and matter are different modifications of some one tertium quid, some hidden thing or force. All these theories admit—indeed they are but various theories to account for—the fact that what we call matter has consequences in what we call mind, and that what we call mind produces results in what we call matter; and the doctrines I quote assume only that. Our mind in some strange way acts on our nerves, and our nerves in some equally strange way store up the consequences, and somehow the result, as a rule and commonly enough, goes down to our descendants; these primitive facts all theories admit, and all of them labour to explain.

これらの原則は、物質や精神の本質に関するどの理論とも無関係です。

精神が物質に影響を与える理論や、精神とは異なる存在であるとする理論、バークリー主教のように「物質は存在せず精神だけが存在する」※とする理論、逆に「精神は存在せず物質だけが存在する」とする理論、そして最近のより洗練された理論など、これらすべての立場において、私たちが物質と呼ぶものが精神と呼ぶものに影響を与え、逆もまた同様であるという事実が認められます。

※「存在することは知覚されることである」(Esse percipi est)という基本原則を提唱したとされている。

引用した理論はこの事実を前提としています。私たちの精神が何らかの奇妙な方法で神経に作用し、同様に神経がその結果を蓄積し、通常、その結果が子孫に受け継がれるという基本的な事実を、これらの理論はいずれも認め、理解しようと努めています。

Nor have these plain principles any relation to the old difficulties of necessity and freewill. Every Freewillist holds that the special force of free volition is applied to the pre-existing forces of our corporeal structure; he does not consider it as an agency acting in vacuo, but as an agency acting upon other agencies. Every Freewillist holds that, upon the whole, if you strengthen the motive in a given direction, mankind tend more to act in that direction. Better motives—better impulses, rather—come from a good body: worse motives or worse impulses come from a bad body. A Freewillist may admit as much as a Necessarian that such improved conditions tend to improve human action, and that deteriorated conditions tend to deprave human action. No Freewillist ever expects as much from St. Giles's as he expects from Belgravia: he admits an hereditary nervous system as a datum for the will, though he holds the will to be an extraordinary incoming 'something.' No doubt the modern doctrine of the 'Conservation of Force,' if applied to decision, is inconsistent with free will; if you hold that force 'is never lost or gained,' you cannot hold that there is a real gain—a sort of new creation of it in free volition. But I have nothing to do here with the universal 'Conservation of Force.' The conception of the nervous organs as stores of will-made power does not raise or need so vast a discussion.

これらの基本原則は、必然性と自由意志という古くからの難問とも関係ありません。自由意志論者は、自由な意志とは物質的な構造に既に存在している力に作用する特別な力であり、物質抜きでは影響を持たないものであると考えています。むしろ、自由意志は他の要素に影響を与える力と見なされているのです。

〔また、〕自由意志論者は概して、基本的には、特定の方向に動機を強化すると、人類はその方向に行動しやすくなると考えています。良い動機、とりわけ良い衝動は良い体から生まれます。逆に、悪い動機や悪い衝動は悪い体から生まれます。

〔さらに、〕自由意志論者は、必然性論者と同様に、改善された状況が人間の行動を向上させる傾向があり、悪化した状況が人間の行動を堕落させる傾向があることを認めるかもしれません。

ただし、「力学的エネルギー保存の法則」※を意思決定に適用すると、自由意志と矛盾することが指摘されています。

※力学的エネルギー=運動エネルギー+位置エネルギー

ここでは一般的な「力学的エネルギー保存の法則」には触れません。神経器官が生成するエネルギーが意志によって蓄積されるという概念は、広範な議論を引き起こすほどのものでなく、またそうした議論の必要もないと言えます。

Still less are these principles to be confounded with Mr. Buckle's idea that material forces have been the main-springs of progress, and moral causes secondary, and, in comparison, not to be thought of. On the contrary, moral causes are the first here. It is the action of the will that causes the unconscious habit; it is the continual effort of the beginning that creates the hoarded energy of the end; it is the silent toil of the first generation that becomes the transmitted aptitude of the next. Here physical causes do not create the moral, but moral create the physical; here the beginning is by the higher energy, the conservation and propagation only by the lower. But we thus perceive how a science of history is possible, as Mr. Buckle said,—a science to teach the laws of tendencies—created by the mind, and transmitted by the body—which act upon and incline the will of man from age to age.

それどころか、これらの原則は、物質的な力こそ進歩の主因であり、それに比べて道徳的な要因は二の次で、考慮すべきでないとするバックル氏※の思想と混同すべきでもありません。

※ヘンリー・バックル 未完に終わった『英国文明史』の著者

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AB

むしろここでは道徳的(精神的)な要因こそが主因なのです。無意識の習慣は意志による行動によって引き起こされ、最初の努力が最終的に蓄積されるエネルギーを生み出し、初代の穏やかな努力が次世代に伝わり、それが適応力となります。

ここでは、物質的なものが道徳的なものを創り出すのではなく、道徳的なものが物質的なものを創り出すのです。ここでは、始まりはより高いエネルギーによってなされ、保存と伝播は低いエネルギーによってのみ行われます。

このようにして、歴史の科学が可能になります。それは、精神によって創り出され、身体によって伝達され、時代から時代へと人間の意志に影響を与える法則を教える科学なのです。


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