ラジオ零れ話:写真とシナリオについて(後編、写真考察編)
どうもみなさんいいお時間ですね。
さてさて零れ話前編に続いて後編も僕ステキ工房のみやちとーるが書かさせていただきます。
後編ではわりと熱苦しく写真について語ることになるかなと思いますので皆様覚悟を。笑
しかし何から話せばええんやろう。
ちょっと話が前後するかもしれんけど、まず映像を勉強したからこその写真への影響として話そびれたことを。
シナリオの考え方は勿論影響してるんやけど、自分的に一番影響していると思うことは編集における「モンタージュ理論」です。
モンタージュというと一般的に一番最初に思いつくのは、警察で犯人の人相をイメージするために目撃者が目はこんな感じで鼻はこんなので口はこれで顎の形はこんなの、みたいに横に細かくパーツで切られたものを組み合わせていくやつ(古いかな?今あんなの見かけんなそういえば。。)かなと思うんやけど、映像の編集方法でモンタージュ理論というと、複数のカットを継なぐときにそれぞれのカットだけでは想像できないであろうイメージをカットの組み合わせによって鑑賞者に与えるという編集の理論です。(私的解釈)
大学では、セルゲイ・エンゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」とグリフィスの「イントレランス」を例に習いました。
おそらくこの二つがモンタージュ理論の祖だと思います。
この編集の考え方が、僕の写真編集というか組み方、展示構成などに大きく影響していると思います。
写真は組み合わせによって、その1枚の持っている意味合いが大きく変わってきます。
逆にいうと、どんなに想いを込めて撮影した写真であっても、組み方を間違えると全く別の意味合いの写真になってしまい想いは伝わらなくなってしまいます。
表現者として写真というメデイアを使って何かを現したいという時に、写真の組み方やタイトルの付け方などの編集という作業はとても大切になってきます。
ここでは便宜上写真という言葉について、演出フォトや報道・記録写真ではないスナップ写真のことを指してお話しさせていただきます。
僕は写真に写っているもの自体は自分で作ったものじゃないし、被写体の力が凄ければいい写真にはなってしまうし、じゃあ芸術としての写真、表現としての写真ってなんなの?という事を考えてきました。
例えば大自然の美しい風景を写真に撮ればそれはステキな写真ですが、その写真の美しさは大自然の美しさであって撮影者が作ったものではないですよね。
勿論目に見えている状態よりも画像処理などによってもっと劇的なものにして印象的にすることはできます。
またその美しさの中でもここ!というところのにフォーカスを当てて美しさの感じ方を独自の視点で提示するということもできるかもしれません。
しかし、演劇、舞踏、音楽、絵画などのように創作・創造することであったり、身体を用いて人間が表現するということがその写真だと欠けているように思えたんですよね。
僕的には、映画は監督の作品であるということを踏まえて、1枚1枚の写真は各シーン、カットのようなもの、あるいは役者のようなものと捉えて、それ自体は撮影監督や照明さん、録音・音響さん、美術さんなどが作った断片であり、勿論監督も魂込めて演出してるんだけど、最終的には各カット、シーンが繋がり一つのタイトルのついた1本の映像作品となるみたいなイメージで、写真展や写真集という一つのタイトルのついた一つの作品を編んでいくというのが、写真で表現する、写真でアートするということなんじゃないかなと思っています。
1枚1枚のいい写真を撮っていくことは、いい役者を育てていくような感じに近いかと。(いや、ちょっと違うか?例えが難しい。。。)
勿論、120分の映画もあれば15秒のCMもあるようにどちらも映像作品な訳で1ショットの映像も1作品になるように、写真1枚だけでタイトルつけて作品となることもあるとは思います。
なので必ずしも組まないといけないという訳ではないとは思うけど、ま、個人的好みで言うと長編映画が好きかなというところなのだと思ってます。
ここでもう一つ、写真で一作品としてまとめあげる時に僕は展示という形を取ることが結構あります。
展示のように空間に写真を配置して見せる場合に、写真のサイズだとか間隔だとか高さだったりとか、照明の明るさだったり、そのほかにも装飾や色々なことで作品として伝えたいことを表現することができてきます。
いわゆるインスタレーション、空間演出の表現方法で写真を使って表現するということになってくると思うのですが、僕は写真を展示で表現していく上ではこのインスタレーションは避けて通れないと思っています。
↑ 3人展(菱田諭士・みやちとーる・内間悠太)「かみのひとひら 熊野」2014年11月 三重県立美術館 みやちとーる展示分より
僕は基本的には写真展にしても写真集にしてもタイトルを付けるということは、それ全体で一つの作品ということだと思うので、写真展や写真集を鑑賞する時にはできれば映画を各シーンだけ抜き出したり役者だけで判断したりしないように、オープニングからエンディングまで全体を通して批評してもらえたらいいんじゃないかなと思っています。
そしてここまで編集について色々語ってきてなんですが、実は、撮った後、自分が撮影した写真を一旦全て受け止めて、アウトプットまで持っていく段階で再構築して1枚1枚の写真を駒のように考え展示や写真集などで一つの写真作品へと持っていくという方法論での写真で表現する、アートするという事とはもう一つ別の次元で、絵画やグラフィックにはなかった「この世界に対峙してシャッターを切る」という行為で表現するというもう一つの軸があると思っています。
絵画ではない写真としての力として、シャッターを切る(写真を撮る)ということに集中するということが大事なんじゃないかなと。
いかにわかりやすい劇的な瞬間に反応してシャッターを押すかということではなく、一見普通に流れていく世界の中で、自分は何にどう反応してどの瞬間にどこに向かってカメラを向けシャッターを切るのか?
普段の何気ない瞬間であってもシャッターを切る気になるということは、やはり何か自分に引っかかるところがあったからで、いかに世界に対して感じる感度をあげていくかが鍵になってくる気がします。
↑ みやちとーる写真集『永遠の夏休み』より
何気ないとはいえ、写真としての強度は必要だと思うんですけど、その強度も写真を編集して組んでいく中ではある程度の強弱がある方がリズムができたりすることもあるし、或いは強い写真ばかりが連続して押し寄せることで映像で言うフラッシュバックのような迫り方がいい時もあるかもしれないしその時々だと思うんですけど、どちらにしても一見普通に見える写真でもその写真が積み重なると違和感が生まれてくるような奥底にある強度は必要なのかなとは思います。
さらに僕はシャッターを切ると言うことにおいてもう一つの側面があると思っていて、それは自分と世界との関係性というか、自分と被写体との関係性のコミュニケーションアートとして、シャッターを切ると言う行為自体が周りの人に何かを感じてもらえるものになると言うことです。
この辺りのことに関しては、またよければゆっくりお話しすることが出来ればいいなと思うので今回は詳しく書かないですが(この記事へのみんなの♡が多ければまた呼んでもらえると言うことですね。笑)、僕がここ数年行っているLive shootingというステージ上で僕も演者の一人として写真を撮り即座にステージ上のスクリーンへ撮影した写真を順次見せるというパフォーマンスは、その事を強く意識した今もまだあまり多くの人が語っていない「写真」オリジナルの力だと思っています。
だらだらと僕が思う「写真」について書いてきたけどある程度は伝わったやろか?
ここでまだないとラジオ本編の中にでてきた僕が時々インスタにアップする時につけてると言ってたハッシュタグを記しておこうと思います。
(最近つけて投稿してないけどなぁ。。。。)
#特別な瞬間の連続が日常
#私写真に決定的瞬間なんてない
#生きてる限り全ての瞬間は等価である
そして最後に、我が師と勝手に仰いでいる林和美氏著「写真生活手帖 実践編 大切な想い出の残し方」(2009年ピエ・ブックスから出版)の中に写真を楽しむ人として掲載していただいた文章を引用させていただきたいなと思います。
ながながとお付き合いありがとうございました。
〜〜以下引用〜〜
○写真を撮るときに大切にしていること
技術や常識とか既成概念に捕われない。全ての瞬間は等価である。写真は現実世界の複写に過ぎず、記録メディアでありコミュニケーションツールである。僕がシャッターを押した写真は、全て、僕にしか撮れない写真である。このような事を思いながら、出てきた写真は全て自分自身で、僕の写真をよくするには、僕が魅力的な人になるしかないと思っています。
〜〜以上 林和美氏著「写真生活手帖 実践編 大切な想い出の残し方」2009年 ピエ・ブックスより引用〜〜
写真集「永遠の夏休み」写真/文 みやちとーる 2010年 自費出版
*トンガ坂文庫などで絶賛取扱中
『ステキ工房』HP ↓
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