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岐阜新聞 素描 第八話『地方で最先端を走る』 2022年12月21日(水)掲載


プログラミングを始めたのは
1985年。

プログラマーなんて存在は、
得体が知れない。
そんな仕事があることさえ、
知られていなかった頃のお話。

私はというと、
大学2年の春に旗揚げした劇団で、
脚本を書きながら、
年中、芝居漬け。

就活する気などさらさら無くて。
卒留するつもりで、
卒論出さなかった。

それがあろうことか、
卒業式の日に、
卒業証書が出ていた。

という大事件の後、
当然、
就活も何もしていなかった自分は
無職となり、
毎朝、
中央卸売市場で野菜を運んで
食いつなぐ生活になった。

そんな折、
ある日のアルバイトニュースで、
『プログラマー研修生募集』という記事を見つけた。
研修生なのに時給800円。
早朝の市場のバイトに頻繁に遅刻していた心苦しさもあって、
すぐに飛びついた。

面接の上、
運良く選考を通り、
どんな仕事かよくはわからぬまま
3ヶ月間、
がむしゃらに習得した。

無事、研修期間を終えて、
本採用となった。

それからは歩合給。
稼ぎに稼いだ。

稼いだお金は
売れない芝居に注ぎ込んだ。

貧乏暇なし。
脚本書いて、演出して、稽古して、
プログラミングした。

世の中はバブル期に入ろうとしていた頃。
そんな時代に、
アンダーグラウンドな生活を謳歌した。

あれから37年。
まさかこんな世の中がやってくるとは。

1980年代後半、
あの頃は、
インターネットなど民間が使えない時代だったが、
東海銀行(現UFJ銀行)のATMのプログラムを書いていた。

専用のケーブル回線を使って通信する
それでも、当時の最先端のネットワークを使って
プログラミングする仕事だった。

COBOLという
今では化石となったプログラム言語に、
急遽『linkage section』と名付けられた
連絡領域をやっつけで増設して、
ネットワークに接続する
苦肉の策で構築する手法だった。

今や、それとは雲泥の差のある世界だ。
もはや、全てが連絡領域な世界だ。

こんなことになるとは。
おもしろすぎる。

あの頃、私は都会にいた。
そこにいないと、
あんなチャンスに出くわすことがなかった時代。

今や田舎にいて、世界が見渡せる。
最高じゃないか。


岐阜新聞 素描 2022年12月21日(水)掲載 第八話『地方で最先端を走る』


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