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ダニエリのマルコ君

夏の太陽がきらめくヴェネツィアの大運河、
カナル・グランデから
細い水路を一本曲がったところでボートを降り、
裏口のようにひっそりとした扉を一歩入ると、
そこには甘い溜息の出るような世界が広がっていた。

吹き抜けのアーチに、重厚な大理石の階段。
長く夢に見た、ホテル・ダニエリのロビーである。


わたしの旅の楽しみのひとつは、滞在する宿だ。
とりわけ歴史情緒あるホテルが好きで、
もとは貴族の館だったり、
名だたる文豪や文化人が定宿にしていたり、
政治の舞台になっていたり、
歴史の裏と表を見てきたようなホテルに目がない。

なかでもヴェネツィアのダニエリは、
映画「ツーリスト」のロケ地としても有名だけれど、なによりも、
ゲーテ、コクトー、ジョルジュ・サンド、バルザックなど、
綺羅星のような芸術家に愛されたホテルで、
その存在を知った大学生のころから
何年も憧れ続けたホテルだった。

学生の頃に二度訪れたヴェネツィアでは
恐れ多くてダニエリには泊まれず、
大人になったら、
いや、ここに滞在するにふさわしい人間になったら必ず、と思っていた。


月日は流れ、気づいたら一児の母、
育児と仕事に追われて過ぎていく毎日に、
非日常への旅をしたいという気持ちが熱病のように高まり、
イタリアへの航空券を手にしたときには、
ほとんど衝動的に、
ダニエリに宿泊の予約を入れていた。
そこにふさわしい人間になったとは思えなかったけれども、
チャンスは今しかない、と感じたのも事実だ。


長年憧れ続けたホテル、
しかし、こちらはやんちゃな盛りの子ども連れ。
内心、嫌な顔をされたらどうしようかと
緊張しながらのチェックイン。

フロントで滞在についての短い説明のあと、
お子様に、と、
なにやら息子に手渡されたものがあった。

ライオンのぬいぐるみ。

その、ゆるキャラのようなぬいぐるみは
どうやら宿泊する子ども向けのサービスのようだった。
良かった、子どもも歓迎されている、とわかって
わたしはホッとしながらそのライオンを見た。
うん? 背中に翼が生えている。

瞬間、あの有名な広場と寺院の名前にもなっている
ヴェネツィアの守護聖人が頭に浮かんだ。
有翼の獅子、サン・マルコ。

即座に息子がライオンに名前をつける。
命名、マルコ君!

そうして、ダニエリのマルコ君は
わが家にやってきたのだった。


夕暮れどきのマジックアワー。
ダニエリのテラスレストランから
眼下に広がるカナル・グランデ。
ヴェネツィア発祥のベリーニでの乾杯。

長年の念願が叶って
なにもかもが完璧な夏の夜、
ほろ酔いになったわたしは
ざわめくレストランの喧騒のなかに、
まるで19世紀の文豪たちが
文学談義でもしているかのような気配を感じた。

となりでは、時差ボケの息子が、
マルコ君を抱きしめたまま枕にして
テーブルに突っ伏して眠ってしまい、
まわりの陽気なイタリア人から
あらあら、かわいいね!
などと声をかけられ、
それが子連れ旅のリアルなのだけど、
ほんの一瞬、19世紀にトリップしたような
夢のような時間を味わえたのは、
決して酔いのせいだけではない。


その翌年の夏も、ヴェネツィアを訪れた。
東京では夏がくるたびに、ベリーニを飲んだ。
でも、はじめてダニエリに泊まった夏、
あの一夜を超えるものには出会えていない。

夫とは、息子が巣立ったら、
かつて3人で旅行した街を夫婦で再訪しようね、
という話をしている。
ヴェネツィアも必ず行くことになるだろう。

そのときはきっと
東京からマルコ君を連れて行こう。
妙齢の夫婦が、
翼の生えたライオンのぬいぐるみを片手に
ベリーニで乾杯していたら、
それはきっと、あの夏のわたしたちだ。

#子連れ海外 #憧れホテル #あの夏に乾杯

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