見出し画像

父について2

他に書き途中の下書きがあるのだが、どうにも先に進めなくなってしばらく間があいてしまった。

家族からよく『記憶なさ過ぎっ』と非難されるのだが、父について文章を綴ろうと記憶を辿り始めたら、どこに仕舞ってあったのか引出しが開いて、いろいろなことが甦ってきた。存在の意外な大きさに驚いている。

それが、ほぼ怒られたり殴られたり、いい思い出とのバランスが悪すぎて前述のように筆が止まってしまった。なんとか頑張って再チャレンジしてみる。主に小学生の頃の思い出である。

お酒が好きで大体飲んだら暴れる父だった。ある時、暴れて母に殴りかかる父に『お母さんを殴るなら私を殴れぇぇ』と無謀にも飛びついた私であったが、一瞬ののち部屋の隅に転がっていた。思ってたんと違う。ってこーゆー感じ?

また父の酒癖にもうひとつやっかいなものがあった。飼い猫のひげを燃やしたり、お酒を無理やり飲ませたり・・今から思えば信じられない。腸が煮えくりかえる。小さな蓋にウィスキーを入れて猫に飲ませようとする父。それを『代わりに飲む!』と奪って飲んだ。そんな捨て身の抵抗もあってか、その後猫にお酒を飲ませることはなくなったように思う。小学生にして酒豪の修行を積んだ私であった。うぃ〜

父が交通事故に遭って働けず、しばらく家にいた事があった。ある日のこと学校から帰り道、私の中でふと悪戯心が芽生えた。家に着いた私はおもむろにドアのチャイムを鳴らした。父が出てくるまで『開けたらどんな顔するかな?』と自分の思いつきにワクワクしながら…ドアが開いた瞬間、父の顔色が変わり、愚かな子どもに天罰が下る。その頃の私に言いたい。学習能力がなさすぎるよ。

やはりこの頃の事で忘れられない事がある。父は若い頃、独学でバイオリンを学び、機嫌の良い時はよくバイオリンを弾いていた。また手作りのバイオリンを作った事さえあった。暇を持て余したのだろう。気まぐれにバイオリンのレッスンをすると言い出した。嫌だなと思ったがそれを言えるような相手ではない。悪い予感は的中し、友だちが遊びに来ている最中にレッスンだと言って問答無用に遊びを中断される。友だちに帰ってもらうしかなく本当に悲しかった。私も覚えが悪かったのだろうが、結局父の方が教える事に飽きてしまい長く続かなかった。堪え性のない父でいやはや幸運だった。

小学生の頃は毎日のように父と一緒にテレビでプロレスや洋画を見ていた。プロレスの全盛期で歴史的な試合もリアルタイムで見た記憶がある。けれど当時一世を風靡していたドリフの『8時だよ!全員集合』とか歌謡曲番組などは俗悪だと言って、決して見ることを許されなかった。しかし俗悪だろうがなんだろうが、みんな大好き8時だよ!全員集合をなんとしても見たい!私はその一心で時を待った。そして…たまさか父が寝るという好機が訪れる→そっと布団を抜け出す→全神経を集中してチャンネルを回す→息を殺し音なしで父とドリフを交互に見る。(音なしのお笑い番組ってシュール)あんなにスリリングなテレビ鑑賞は後にも先にもない。

何かと飽きっぽい父ではあったが1972年に日中の国交が回復され、パンダが日本に送られ中国ブームになった頃、中国語を学び始めた。私が中学の頃には中国語の学校に入るため単身東京に住んでいたこともある。その勉強は終生変わらず続けていた。今も父の古い中国語辞典が我が家の本棚に置いてある。

書き連ねた思い出の大半は辛い記憶のはずだが、何故か懐かしく思い出される。今からみればDVに分類されるであろう。戦争・敗戦を経験し、急速に変わってゆく時代に不器用な父はついて行けなかった。家族の中で自己を表現するしかなかったのだろう。

今日、母を呼んでお昼を一緒に食べた。その後、昔の話を色々聞いていたのだが父のことをこう言っていたのが印象的であった。

お父さんは自分勝手だったけど、狡い人間ではなかったよ。

そうなのか。だから、わたしの中の父の思い出は痛くても嫌な思い出にはならないのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?