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父について

父が死んでいた。

父が死んだ。ではなく、なぜ父が死んでいたのか…それはまさに私が、死んでいた父の第一発見者だから。

2000年11月末の夕方。季節が一気に冬へと転換したかのような底冷えのする日だった。母が父の好物だからと買った『麦こがし』という菓子を持って、当時幼稚園児だった娘と2人で父のもとを訪ねた。玄関の鍵が閉まっていて開かず、呼鈴を鳴らしても応答がない。仕方なく庭先から父がいつもいる奥の茶の間へ向かった。外から声をかけたがやはり応答がない。この時点で微かな不安が首をもたげている。幸い鍵がかかっておらず電気もついている。『あがるよー』と言って娘と部屋へ上がる。父はいない。茶の間の横の台所にも姿はない。そうか、お風呂に入っているんだ、と思って娘を茶の間で待たせて風呂場へ向かう。
そして…

多分無意識に小さな叫び声を上げていたのかも知れない。娘が『ママ〜、おじいちゃんは〜?』と言いながらこちらへ近寄ってくるのを、出来るだけ落ち着いた風を装いながら『こっちに来ちゃダメだよ〜。ちょっと待っててね』と制止し、頭の中で『どうしよう、どうしよう』と考えを巡らした。とりあえず夫に連絡し、わたしの家にいる母にも電話をかける。それから110番にも。この一連の流れは比較的冷静に対処出来ていたと記憶している。ただ警察が来るのを待つ間、娘に向かって『大丈夫、大丈夫だよ、大丈夫だからね』と繰り返しながら自らに言い聞かせていたように思う。

警察、監察医による検視、検案が行われ、死因は脳出血と判定された。風呂に入って脳出血を起こし、そのまま亡くなったとの見立てだった。死亡からの経過時間は20時間弱で前の晩の10時頃。本人は多分苦しまず、いい気持ちで亡くなったと思うよ、と本当なのか慰めなのか分からない言葉を監察医からかけられた。確かに父の顔に苦悶の表情はなく、その言葉を裏付けるような穏やかな顔に見えた。警察の事情聴取というものを初めて経験したわけだが、その間、微かな震えが止まらなかった。本当に寒い夜だった。台所には最後に父が煮たのであろう、飴色に煮えた大根が鍋に残っていた。

ここまで書いて分かるようにわたしの父はいわゆる『孤独死』であった。

詳述は避けるが当時、ある理由によって両親は離婚をしており父はひとり暮らし、母は私たち家族と同居し数年が過ぎていた。(いつかこの事もかけるだろうか。うまく纏められるかどうか未だ自信はない)

父は私にも絶縁を言い渡していた。しかしこの半年前、私は父に宛てて手紙を書き、その手紙に対して父から『買い物がしたいから車を出してくれ』と至って普通の電話が来て、それから父のもとを訪れるようになった。

私たち家族が訪ねると父はいつも何かしら食べるものを作って待っていてくれた。特製のお好み焼きやら、苺に砂糖と牛乳をまぶしたものとか、茶碗蒸しとか見栄えも衛生的にもちょっと?と思いながら父の手作り料理を一緒に食べるのが常だった。

娘が生まれてすぐに絶縁されていた為、2人が会うのは初めても同然だったのだが、父は殊のほか娘を愛おしく思ってくれたようで『この子には文才がある』などと、その根拠はどこから来るの?と突っ込みたくなるような褒め方をした。また眩しいものを見るように娘を見ていたのがとても印象的であった。生の終わりに近づいた父には、まだ幼い娘の姿は文字通り眩しかったのかもしれない。買い物に行くと娘と手を繋ぎ、父の歩調に合わせることの出来ない娘が先に走って行ってしまうと少し淋しそうな父であった。

父との絶縁状態を解消したいと思ったのはなぜだろう。一方的に離婚を告げ母を追い出し、私の事も拒絶した父に対して、その当時どう思っていたのか、自分の気持ちに関して記憶が曖昧だ。母は一時期は古いアパートを借りて住んでいたが、娘が生まれた時に一軒家を借りて一緒に住むことになった。3歳の長男も手が掛かるし、当時なにかと忙しかった夫や私にとって母との同居は願ったり叶ったりだったのだ。

母は父の理不尽な仕打ちに対しての怒りよりも、父への心配の方が大きかったようだ。長年父に苦労させられていた母だが、私たち子どもに恨みつらみを感じさせなかった。父に絶縁されていない他の兄妹に『お父さんのところへ行ってあげてね』といつもお願いしていた。父はそんな母を甘く見ていたのだ。だから理不尽な要求に対して、母が受け入れるとたかを括っていたのだ。でもその時は違った。母は父の要求を拒み、両親は離婚へと至った。

そして数年後、父はひとりお風呂の中で逝ってしまった。

父の死後わかったことだが、父は離婚届を役所に提出したすぐ翌日に届けを取下げていた。え?両親は離婚をしていなかったのだ。そのおかげで母は父の遺族年金を現在も受給出来ている。もう少し、父が生きていたら母と再び暮らせたかもしれない。

それでも亡くなる半年前に思い切って手紙を出した私の行為は、父との短いけれど共に過ごす時間を作り出すことに成功した。父と子どもたちを会わせることも出来た。いまでも後悔が残るけれど、その後悔の量は少しだけ減らすことが出来たのかもしれない。

父についてはまだまだ書きたいことが尽きない。父の『最後』から時間を巻き戻す作業になる。




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