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『アドルフ』を読んで 追記

散歩の途中で、最初に読んだ時に感じたことを思い出したので、蛇足ではあるが忘れないよう追記したい。

男らしさであるとか、女らしさであるとか、世間には「こうあるべき」という人間の鋳型が少なからずあり、人はその鋳型にどうにか自分を当てはめ、社会の中で居場所を確保しながら生きているように思える。漠然とではあるが、アドルフの苦しみには「男」であるが故の苦悩があるのではないかと感じた。例えばエレノールを愚弄した男との決闘・・名誉を重んじる男として相手に瀕死の重傷を負わせ、自らも怪我をする。内心エレノールを疎ましく思いながら、この行為は全く矛盾しているではないか!この一貫性のなさは、男とは、貴族とは「こうあるべき」という鋳型に縛られた姿に私には思えた。

そんな感想を、ある人に話したところ「どくだみ夫人さんのお父さんは苦しんでおられませんでしたか?」と聞かれ、ハッとした。私の父は大正生まれで、昔の家父長制を色濃く身につけた人間だった。私が子どもの頃からずっと、父は家の中で暴君であり、少しでも気に入らないと怒るだけでなく手が出たし、酒を飲んで暴れることもしばしばだった。そんな父が「男」として苦しんでいたとは、今まで考えたことも無く、単に性格に難のある人間だったのだろうと思っていた。しかし言われてみて、あらためて生きていた頃の父の姿を思い出して、それはなんとなく、違和感なく当てはまるような気がした。戦中は前線に立つことはなかったものの、初年兵として中国満州へ送られ、厳しい軍隊生活を経験した。その地での凄惨な体験を、父は母に何度も語ったという。戦争が終わり、満州からやっとの思いで日本に戻った父は、その後、放浪生活をしていた時期もあったらしい。戦後、日本はあっという間に民主主義へと方向転換を済ませたが、心身ともに刻み付けられた軍国主義を、私の父がそう簡単に変えられたとは思えない・・放浪という、空白の時間が、父には必要だったのだろう。父は本当に不器用な人間だった。口下手で素面では自分の気持ちをうまく伝えられず、職を転々とし、いつも鬱屈としたものを抱えていたように思う。「男」はこうあるべきというものをゆがんだ形で自己実現するのはいつも家の中だけだった。男性を閉じ込める、男らしさの檻は「マン・ボックス」と呼ばれるらしい。もっと柔軟性があったなら・・違った父を見ることが出来ただろうか。

アドルフのそれは、私の父の場合とは違っているかもしれない。アドルフは才能もあり、家柄も申し分なかった。そのまま進めば順風万帆の未来は約束されていただろう。地位と名誉を手に入れ、世間から立派な男性として認められる人生を送っていたに違いない。それでも彼には何か、そういったありきたりな人生に抗う精神があったように思う。それが若さゆえの未熟さなのか、潜在的なものなのかは明白ではないが、自ら破滅の道へと意識的、無意識的に歩みを進めてしまったように思う。

前回、中途半端な問いを残したまま本を閉じた私は、それからも考え続けていた。「愛」よりも強い「弱さ」とは何なのか。「弱さ」は「狡さ」と親和性がありそうだ。しかし、アドルフが見せ続けた弱さとはいわゆる狡さとは異質なものだったと思う。愛を失ったにも関わらず、彼はエレノールを傷つけまいと自分を偽り続けた。弱さが狡さ故のものならば、彼はとうにエレノールを捨てていただろう。『草枕』有名な冒頭の「情に掉させば流される」の言葉が脳裏に浮かぶ。アドルフの弱さ・・それは「情」のようなものではないだろうか。19世紀の西洋世界に「情」とは、はなはだ違和感を感じるのだけれど、考えても考えても、私にはアドルフの弱さは「情」的なものだとしか思えない。私に向って、夫がよく「もう自分に対して愛はなくて情だけになっちゃったんだね」といじけがちに言う。それはもちろん半分冗談なのだが、しかし「情」とは非常に強く、人の心を支配するものではないだろうか。喧嘩して嫌だと思っても、朝が来たら、出かける夫を見送らないではいられない。こいつーー!!と頭の中で毒づきながらも、同時に心の中では気を付けて・・と願って送り出す。これは夫婦間の情のなせるワザなのだ。エレノールに対する腰の引けたアドルフの態度も情のなせるワザだったのではないだろうか。とすればアドルフは最後までエレノールに対し、ある意味で誠実だったと言えば言い過ぎになるだろうか。結局、彼の優柔不断さは彼女を幸せに出来なかったが。『アドルフ』とは、どこまでも「情」にひきずられた男の物語だったのではないだろうか?そして「弱さ」もとい「情」とは「愛」より強し。それが私の出した謎の回答のようなもの・・

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