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月と陽のあいだに 210

流転の章

慟哭(4)

 白玲を襲った後、オラフは両手を血に染めたまま、呆けたように立ち尽くしていた。駆けつけた近衛士官に取り押さえられ、引っ立てられるときも抵抗しなかった。
 一方、白玲の至近距離で爆発を起こした男は、護衛に追われながらも、人混みに紛れて逃げおおせた。

 ネイサンと白玲はすぐさま治療室に移された。
 短刀の傷が肺に達したネイサンは、大量の出血でもはや手の施しようもなかった。
 一方、白玲はオラフに蹴られた衝撃で破水した。早産にしても早すぎるために、医師たちは懸命に手当をしたが、お腹の子は助からなかった。両手のひらに乗るほどに成長した子は姫宮で、うっすらと生えかけた髪は黒かった。

 白玲襲撃の知らせは、すぐさま月蛾宮に届けられ、皇帝は護衛とともに医学院へ急いだ。
 検死を終えたばかりのネイサンは、まだ治療室に横たわっていた。微かにぬくもりを残した弟の二度と開くことがない瞼に、皇帝はそっと手を置いた。そしてしばらく瞑目していたが、目を開けると、遺体を月神殿の仮墓所に移し、白玲の回復を待つように命じた。

 白玲は、夫と我が子の死を知らぬまま、眠っていた。枕元に近づいた皇帝は、力なく投げ出された手をそっと握った。その暖かさが届いたのか、白玲がうっすらと目を開けた。
「殿下は?」
 掠れた声で白玲がたずねると、皇帝が静かな声で答えた。
「ネイサンは眠っている。そなたもゆっくり休みなさい」
 汗で額に張り付いた髪を撫でると、白玲は安心したように目を閉じた。
「全てを知れば、どれほど辛かろう。天はこの子に何を望んでおられるのか……」
 つぶやかれた言葉は、誰の耳にも届かなかった。
 やがて治療にあたった医師たちを労うと、皇帝はひとり宮へ帰って行った。

 獄に繋がれたオラフ・バンダルは、近衛将軍の取り調べを受けていた。今は憑き物が落ちたようにおとなしくなり、将軍の問いにも素直に応じていた。

「私は姫様が好きでした」
 オラフの後に立った士官が、いまにも殴りかかりそうに拳を握った。
「見合いが破談になっても諦め切れなくて、姿を消した姫様を探しました。城下の料理屋で見つけた時、自分のものにしようと……。そうすれば、気がすむと思ったんです。でも逃げられて、もう『殺すしかない』と思いました」
 士官がオラフの襟首を締め上げた。将軍は士官を宥めると、咳き込んだオラフに先を促した。
「ネイサン殿下の隣で幸せそうに笑っている姫様が、憎くて憎くてたまりませんでした。
 それなのに、さっき血溜まりの中の姫様を見たら、どうしてこんなことをしたのか、自分でもわからなくなりました」

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