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逆再生みたいな話し方だって言われない?

どんなに集団が大きくても、どんなに小さな集団でも、ひとりひとりを、一対一でかかわって知りたい性格は長所かと思う。
しかしその性格は集団の意思を乱す。
集団に意思があるということは理解できる。
しかしそこに自分を交えることはできない。

「ひとと同じ」という言葉に安心感を得られる方ではない。
しかし「人前で目立つことをしたい」という性格ではない。
黙ったままで察してほしいと思うことはないよ、伝えるから聞いてくれと思う。
でもみんな「忙しいからまた時間のある時に」ね。
それなら、もういいんだよ。特別に時間を取らせるようなことじゃないんだよ。

誰かが言うだろうなあ、自分のことを理解されようとしてばかりだと
自分から他人を理解しようとはしないのかと


はい。
そんな自分を「おしまいにしよう」とはしなくていいのかもしれない。
そんな自分が「誰かを癒す」こともあるのかもしれない。
そう祈るようにして、今日もわたしは目を覚まし、おなかを空かして、喉の渇きを忘れていないか気を付けて、変わることと変わらないことは折り重なっている。
わたしは小さな細胞の集合なのだから、絶えず変わっていて、「わたしが変わらない」なんてことは有り得ないのだと思う、誰も永遠にそのひとであることなんかありはしないんだよ。
永遠に変わりゆくというのは「性」を感じる世界だなあ
集団の意思とは集合のわたしの意思と何か違うだろうか
ひとは細胞だろうか
集団の脳はどこにあるだろうか
ひとりひとりの顔を見なければわたしはわたしを保っていられない
違う、ひとりひとり見てたらおかしくなる
正しいのはどっちかな?
細胞のひとつひとつも、全部の細胞と話したがったりするんだろうか

分からなくなるね。考えるうちに混乱してきて、少し笑った。声が出た。
本当は全部どうでもよくて、とにかくかかわりを紡ぎたいだけ、かなあ

分かる、ではなくて「分かった」をあなたにあげたいんだよ。
分かった時、きっと頭で分かるとか分からないとか考えない。
「分かった」になることはきっと予めあなたのどこかにある。
わたしの話なんか聞かなくていいんだよ。
「ね、あなたはそれを持っているよ。そこに、あるよ」
と、それを教えることがわたしにとって「伝える」ということだ。
あとは気付くだけでいいことを、そっと報せるものであれたらと思う、あなたの中にあるたいせつなものに気付いてくれるあなたのことを好きだと思う。
生きることと恋することはよく違いが分からなくなる。わたしは個人を好きにならない。
思い至ることと打ち消すことを繰り返す。
生活だなあと思う。生活は愛おしい。たしかに形があると思うのに、形のある部分が生活なのではなくて、形の見えない部分が生活なのだと思う。
わたしはこの形の見えない部分をどうにかしたいんだな。
歩いたところを切り取って集めることはできない。わたしがこの身で連れていく。

わざわざ立ち止まるような気持ちなら、今じゃなくていいよ。生活を押しのけてまで。脅かしたいわけじゃない。無理に受け取らなくていい。急かしてない。
これは大事な、わたしとの対話でもあるから。
わたしの話はわたしが聞いてる。


恐れ入ります。「まだない」です。 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。 サポート、ありがとうございます。本当に嬉しいです。 続けてゆくことがお返しの意味になれば、と思います。 わたしのnoteを開いてくれてありがとう。 また見てもらえるよう、がんばります。