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それは妹というよりもうひとつの魂だ

私にはひとり、妹がいる。
いつも絵のモデルになっているあの子だ。

3つ歳の差があり、父譲りのくるくる柔らかな栗色癖毛で、
鼻が高くて、ぱっちり二重で、彼女の風貌がとても羨ましかった。
そして稀に見るワガママで頑固者だった。TPO問わずやりたくないことは泣いても叫んでもかじりついても絶対にやらない。母を怒らせ、父を困らせた。

幼少時は私の後を追ってきて、私の言うことなら時々は聞く、本当に可愛い妹だった。
彼女が毎日つく可愛い嘘も、やたらと達者な屁理屈も、乗ってやった。
時々ぐうの音が出ないくらい相手に言い負かされても、彼女は一切悪びれないし終始嬉しそうにニコニコしていた。強かなハートの持ち主である。

小学校で彼女の担任とすれ違ったとき
「宿題の計算ドリルをいつも見てくれてありがとう。丸付けまでしてくれて本当にありがとう」
感謝されたが、その時の私には一切覚えがなかったので(あいつやったな)は、はあ、もちろんです。大変ですね。と咄嗟に変な返しをしてしまったことを覚えている。

妹は口を出し、手や足もよく出し、欲に正直に行動し、妙なところで筋を通し、そういう子が多かった妹のクラスはよく地獄の様相になったようだ。そのせいか彼女は今もやたらと群れることをよしとしない。

両親が離婚してすぐ、彼女は学校にあった寄宿舎に入った。私も遅れて同じ学校に入り、同様に寄宿舎に入った。
そこからは多分、親と過ごすより長い時間を妹と過ごしたしお互いのことで把握していないことはなかったと思う。

私が高校や大学に行くにあたって寮を出たけれど頻繁に連絡を取り合っていた。

会えば一緒にお風呂に入り、お湯が冷め切るまでずっと話していた。服の趣味、人間関係について、美容から、恋愛、人生相談まで。彼女のこと、なんでも知ってた。あんたこうするでしょって未来予測もできた。褒め、叱り、ごはんだって作ったし、服も靴も化粧品だって、大学生の少ないお小遣いで買ってあげた。保護者面談も行った。

地元に就職した彼女は自立した女性になっていた。
もう何でもかんでも話されたり話したり、お願いをしたりされたりということは、なくなった。

○●○●○

先日、祖母の一周忌で久しぶりに妹に会った。

車で迎えにきてもらい、国道1号線を少し走ったところで妹が「お姉ちゃん、(浜松に)戻っておいでよ」とポツリと言った。今までそんなこと言わなかったじゃない。「自分だけでお父さんを見るのは不安だよ」

普段は50m先にいる人間に届くような声量で喋るくせに、甘えたい時、お願い事がある時はそんな感じだ。母音強めの丸文字で喋る。その後すぐにそっけなくなる。


まだ帰れない。
思い出すのが辛い場所がたくさんあるのだ。

父は自分よりひとまわり年下の女性と再婚している。
しばらくは再婚相手に任せていても大丈夫だろう。

「…」

妹はもう、1人の大人の女性になっていて、何時間もお風呂で話せたあの時とは別人のようだ。


私は悩みを聞く相手にはなれない。解決もできない。全智万能なお姉ちゃんではもういられない。それを彼女も知っている。
年を重ねてたくさんのものが見えてくると、絶対だと思っていた親やきょうだいの壁が揺らいでいく。わかるよ。

「まあでも、信じてるからお姉ちゃんのやりたいようにやれば」
ちょっと沈黙を置いた後そう言ってくれた。ありがとう。


○●○●○●



「まあでも、色々不満に思うことはあるだろうけど、私はあんなを信じているから自分のやりたいようにやれば」
思春期の彼女に何回かけたかわからない言葉だ。

平時の彼女は、本当に素っ気ない。
人によっては嫌われているのかと感じることもある。うっかりすると私もそう感じる。


過去にかけ続けた言葉が時々、10年遅れのこだまのように返ってくることがある。そんな時、まだ彼女の心の中に「お姉ちゃん」の居場所が確かに残っていると、忘れられていないと思って、卑怯だけど、嬉しいんだ。
もう私はそんなに重要な存在じゃないかもしれないが、人生の途中までは、彼女の存在は本当に自分の一部だったんだ。

〇●〇●〇

私が登校拒否で泣いていた時、あなたは特に登校拒否する理由ないのになぜか一緒にクローゼットに引きこもってニコニコしていたね。私はルールを破る自分への失望、罪悪感でぐちゃぐちゃだったのに、彼女、それら全部屁とも思ってなかった。その時の驚きは、今でも宝箱に入れて心の一等地にしまってある。

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