はじめに

何かについて語るというのは難しい。基本的に内向的な人間なので私が熱心に何かを語ろうとする時だいたいその矢印は自分の内側に向かっている。昔はあんなに語れたじゃないか、読みたての市川拓司を頭に置いて、心に移り行くよしなしことをそこはかとなくかきつくれた、いやあんなものは多感なティーンズの何か特別なものを作りたいという欲に塗れたできそこない構文にすぎないや。
私は絵を描くが絵で解放されたと思ったのは自分がさも救われてますといった画風のものを描き出した時だ。文で解放されるなら同じようにさも私は救われてますといった内容のものをまとめたい。辿り着きたい場所、結果へのイメージが大事なのだ。途中経過は何だっていい。つらいで始まりつらいつらいと書き綴ってつらいと締めくくり、延々と続く鬱への階段を一段飛ばしに駆け降りていくようなことは避けたい。いい大人なのでそういうことはしたくない。私にも一応プライドがある。聾者は日本語が苦手と言われるがその中では異色の文才を放ち第二の神童の名を欲しいままにした私だ(ほしいままって「恣」漢字一文字で表せるんだよ)文のうまさって何だろう。絵のうまさは最近やっとわかってきた。人によって目的地が違うのだ。舐められたくないというプライド、自分をより良く見せたい見栄、文の癖、思考の歪み、そういうものを取っ払った時に残る何か、何かを相手の心にもいかに同じ質量で届けられるのか、またはより良い別の何かにして贈れるのか。絵でも文でも、やり方は大した問題じゃなくてそれによって辿り着く目的地が大事なのだ。私はそれができるだろうか、それを忘れずにいられるだろうか。

何について書いたら良いのだろうか。何なら読みたいと私の周りの人間は思ってくれるのだろうか。合理的なもの、人を感嘆させられるものは書けないな。私が無駄を愛し無駄に愛される合理的な人間ではないからだ。嘘もそんなに上手くないから面白いフィクションものもできない。ハシゴを一段一段踏み締めて登っていくみたいに知識をひとつひとつ実践・体験に変えていくことを愛してる。レポートものだったらいけるだろうか。あと独特な生い立ち(こう形容するとちょっと不遜な感じ、だいたいの人はそれぞれの生い立ちを持っている)についても忘れないように記しておけたらいいな。珍獣を見るつもりで読んでいただけたら幸いです。

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