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モラトリアムとフィッシュマンズ

1999年の冬だったか、フィッシュマンズの佐藤伸治が死んだとのニュースを聞いた時僕は大阪の某薬理研究所のベッドの上だった。
当時大阪芸術大学の学生で、ぼんやりヘラヘラと毎日を過ごしアルバイト感覚で新薬の最終的な投薬試験を人体で行う一週間のボランティア(ここではあくまでもボランティアだと主張していた。こちらの誠意に対してのお礼という形で高額の謝礼金を支払うという事だった)に参加し、初日に投薬を受けた後はする事もないので毎日施設のベッドの上でゴロゴロしていた。
隣のベッドは同い年位の医大生で、ここは食事も支給だし時間もたっぷりあるので勉強がはかどるし、尚且つお金も貰えるのでおいしいバイト、、、いやボランティアだよねwと笑っていた。
逆側のベッドは少し年上のバンドマンで、毎日毎日ベッドの上でギターを弾いていた。(医大生はうるさいのかヘッドフォンで耳を塞いでいた)
医大生は医者になる。バンドマンはバンドで成功する。その為にお金をここで貯める。目的。僕には特に何もなかった。
「なんとなく映画が好き」という理由で映像学科を受験したが「本気で映画が好き」という同級生達の中で完全に気後れしてしまい、とはいえ自分には絶対に何かが「ある」(が、それが何かは全く検討もつかないという情けない位に凡庸な感覚)という気持ちだけで過ごしていた。毎日をぼんやりヘラヘラしていたのはそれをごまかしていたんだろう。

卒業の時に学科長から「さて、諸君らはこれから修羅場であります。さようなら」と訓示をいただいたが、薬理研究所のベッドの上でフィッシュマンズのMY LIFEを聞きながら「今はいいよマイライフ〜♪」と鼻歌を歌っていた僕は、あ〜ボランティア終わったら何買おうかな〜
しか考えてなかった。(MY LIEEの歌詞はこの後「こんな時が、幸せっていう怪物だって」と続きます。でもこの時の僕は幸せではなくダラケてるんですけどね笑)

小さいフィギュアを沢山作ってアメリカ村で顔を真っ赤にしながら「僕こんなの作ってるんですけど、よかったら置いてください💦」て歩いて一軒一軒お店を周るのはもう少し後の話になります。


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