蜘蛛男と幽霊退治の映画を観て

結論からいうと、どちらも面白く充分に大満足な作品でした。

個別の作品について改めて語りたいとは思いますがが、この2本を観て感じたことがあったので記しておくことに。

 特に蜘蛛男の映画に関して

「昔の映画のこと持ち出されてもチンプンカンプン!」

 というネガティブな意見を耳にしました。

 そうですよね。

 過去の作品を観ていないと楽しみは大きく減退することに関しては全く持ってその通りです。

 でも、この映画は、そういう「昔の映画を観ていない」人のことは基本的に相手にしていないのです。

 もちろん、この映画が初めてだという人が見ても楽しめるようにはなっています。

 その部分は過剰ともいえるくらいで中盤のビジュアルだけで押し通す不思議なお医者さんとの攻防など、アトラクションとして楽しんでもらうために存在するシーンを用意することで勘弁してね。という感じだと思います。

 逆に言うのなら、「この人誰?」と疑問を持ったら過去の作品を観てくれや位のテンションだったりします。

 なので、「昔の映画のこと持ち出されてもチンプンカンプン!」という人にはご愁傷様としか言えません。この作品はあなたを観客とみなしていません。あなたにとってはハズレであったのでしょう。

 で、これと似た意見でもうひとつ、とても気になる意見がありました。それは

「これは果たして映画なのだろうか?」

というもの。

 その意図することは「映画に散りばめられた情報を理解しつくすには、過去のシリーズのみならず、関連作品だけでなく、テレビドラマや配信ドラマなど、劇場公開作品以外の映像を見なければならない。映画館以外で観るものありきで作られたものは果たして映画といってよいうのだろうか?」ということです。

 これはとても考えさせられました。前述にように作品内容ではなく作品の置かれた構造自体を鋭く看破していると思います。

 映画とは何か? と問われウィキペディア先生に訊ねたところ

「専用施設(映画館等)の中でスクリーンに投影して公開する作品を指す」

という答えが返ってきます。

つまり、映画館で観るものが映画なものなわけで、当然ながらその物語は映画館で上映される作品内で語られる必要があります。ところが蜘蛛男の映画は「シナリオでいうセットアップの部分を他のメディアに丸投げしてなくない? 映画の中で完結しないタイトルを映画とひとくくりにしてよいの?」というお話です。

 先のネガティブ意見とどこが違うの?という人もいるかもしれませんが、先の意見は「作品の面白さ=口にあうあわない=好きor嫌い」の話でこの意見は「映画の在り方に対して定義が不明瞭になってきたかもしれない」というそれ以前の話だったりします。

 そこで自分なりに考えてみたのですが、たとえ一本の映画にすべてがパッケージングされていなくともそれが「新しい映画の姿」なのだという結論に至りました。

 一連のMCUも考えようによってはビックリマンやガンダムのようなもの(SWやスタトレもこの範疇に入ります)で、その膨大な情報量を把握している人の数が多いので、その人たち向けの商売が成立するという話でしかないのではないでしょうか? なので、そこが「?」という人は情報をゼロから集め直すか、スルーするでよいのでは? 

 で、幽霊退治の映画も過去の作品世界を大前提に作られており、第一作を観ているといないとではクライマックスの感動が違ったりします。

おそらくこれからもこういう「情報密度マシマシの旧作ファンのおもてなし超大作」は続々と増えていく気がしてなりません。ソフト化、配信などで好きな時に好きなだけ作品に触れることができる時代である以上、観るたびに発見(というと聞こえはいいですけど)があるというのは時代の必然であり、これからのIPには必須の条件になってしまったのかもしれません。まぁ、盛大にずっこけたユニバーサル映画の「ダークユニバース」の例をあげるでもなく、それはそれで血を吐きながら続ける悲しいマラソンなのかもしれないですけど。


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