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T氏の懐中時計

感染症対策のために、政府はガイドラインを発表し、腕時計ではなく、懐中時計を使うようにと推奨をした。
そのガイドラインが公表されると、政府はひとりにつき1台分の補助金を公募した。
そのおかげもあってか、今では多くの人々が懐中時計を使っている。

多くの人が使っているのは、ねじまき式の懐中時計でしょっちゅうねじを回さなければならなかった。
それに懐中時計を入れておくべき内ポケットやら胸ポケットやらのついたジャケットを着用しなければならなくなった。
ジャケットを着用する人が街に溢れかえっているので、なんだか世界は辛気臭くなってしまった。

T氏の懐中時計は数日前から1分遅れるようになった。ねじを巻いても、巻いても、1分遅れるのだ。
ねじを巻いても遅れるのでT氏は時計を信じず、1分早めに行動をすることにした。
13時の待ち合わせには、12時59分に到着するようにしたし、睡眠はいつも8時間睡眠であったが、それを7時間59分に短くした。
しかし、朝起きるとまた1分時計が遅れているのだ。
毎日、毎日、1分づつ遅れていき、T氏は毎日、毎日、1分づつ早く、短く行動を改めた。
1週間も経てば、13時の待ち合わせには、12時53分に到着するようにしたし、睡眠は7時間53分睡眠になっていた。
このまま毎日1分づつ時計が遅れ続けたなら、理論上1440日目にT氏はいなくなってしまう。

T氏は、1日1分づつ遅れる時計を時計屋に持って行った。
時計屋は時計を分解し、部品をきれいに拭いて油を差し、それを元に戻した。
「大丈夫ですよ。部品をきれいにしておきましたから、調子よく動くでしょう」

しかし今度は毎日1分づつ早く動くようになってしまった。
仕方ないので、T氏は1分遅めの行動を取ることにした。
13時の待ち合わせには、13時1分に到着するようにし、睡眠は8時間と1分取った。
そして、1週間も経てば、13時の待ち合わせは、13時7分になり、睡眠は8時間7分に増えていった。
このまま毎日1分づつ時計が早まり続けたなら、理論上T氏の時間は無限にふくれあがってしまう。

T氏は散々いろいろな時計屋を回った。
しかし、誰一人として正確な時計に直せる時計屋はいなかった。
「あのね、時計っていうものは多少早まったり、遅くなったりするもんなんだよ」
と、ある時計屋は言った。
「それで誰も死んだりしないのですか?」
T氏は心配になってそう聞いた。
「時計のせいでかい?」
時計屋は驚いてそう聞いた。
「そうです。時計が遅く進むと、人が消滅しちゃうってことです。あるいは、時計が早く進み過ぎて、無限の時間の中に置き去りにされてしまう感じです」
T氏は不安そうな顔を時計屋に向けた。
「そりゃ早く進みすぎたり、遅く進んだりするのを放って置けばそうなっちまうかもしれない。だけど、そんなことになるまで放って置く奴はいないだろう?遅かれ早かれ、時計の調子が悪ければ時計屋に持ってくる。時計屋に持っていけば、早いのは遅くなるし、遅いのは早くなる。そうすれば平均的な時間に収束していくだろう。時間て言うのはそういうものだろう」
時計屋はそう言って、T氏の懐中時計の修理を終えた。
「1度狂った時計は、もう一生狂い続けなきゃいけないんだ。そうしないとあんたが失った時間は戻らないし、あんたが得した時間は返せない。あくまであんたが生きなきゃいけないのは平均的な時間なんだ。学校で習わなかったかい?時間は伸び縮みするんだって」

T氏の時計は少しづつ遅れだした。
T氏はむきになってねじを巻いたが何の意味もなかった。
感染症の拡大が収束しても、人々は懐中時計を使い続けた。

1度狂った時計は、一生狂い続けなければいけない。
そうしないと失った時間は戻らないし、得した時間は返せない。

人々は時計を修理し続けた。
時計屋ばかりが繁盛していき、私たちはもうまともに待ち合わせをすることも眠ることもできなかった。

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