見出し画像

地テシ:350 保土ヶ谷宿から神奈川宿への古東海道の旅 前篇

今年一つ目の舞台であるdopeⒶdope「バンピーラダーズ」のキービジュアルが発表されました!

色んなポーズの10人に対して私だけカメラ目線で直立なのは何故なのでしょうか。それは本編をご覧頂ければ判ると思います、多分。判るんじゃないかな、多分。
明日の1/14(日)朝11時から前売り開始ですので、気になる方は是非ともポチって下さいませ。どうぞよろしくお願い致します。


さて、散歩欲が日に日に増していくこの冬。ちょうど一年前には保土ヶ谷宿から戸塚宿へと旧東海道を歩いていました。それについてはこちらの記事をご覧下さいませ。

でね、一年前にそのルートを確認していた時に、Google Mapで「古東海道」という表示を見つけてしまっていたのですよ。

中央下側に見えていないけど保土ヶ谷駅があって、中央上部に古東海道の文字

ん? 何? 古東海道って?

旧東海道を確認していたら古東海道を見つけてしまいました。かといって、これは奈良時代に制定された古代東海道のコトではありません。何しろ古代東海道を通る官道は鎌倉から三浦半島を通って、走水から房総半島に船で渡っていますからね。ただ、平安時代頃には平塚辺りから北上して府中市の武蔵国府を通るコースに変更されていたようですが。
つまり、ここで言う「古東海道」というのは古代東海道ではなく、江戸時代に整備された東海道(今でいう旧東海道)よりも古い時代の東海道という意味のようです。言ってみれば旧旧東海道ですね。
関東近辺の古代官道は時代と共に廃れて、鎌倉時代には数多くの鎌倉街道として再編成されていたようです。その中でも江戸時代に整備される東海道の元になった道がここで言う「古東海道」というワケです。

そうなんですよね。保土ヶ谷辺りの旧東海道がやけに直線なんで変だなあと思っていたんですよね。徳川家康が1601年に整備した東海道が古東海道で、1648年に今残されている旧東海道が整備されたそうです。通りやすく真っ直ぐなルートに変更されたというコトで、いわゆるバイパス工事のようなモノだったのだろうと想像されます。
そして新しい道(旧東海道)を「新町通」、古い道(古東海道)を「古町通」と呼ぶようになったというワケです。

長々とややこしい話を説明して参りました。何が言いたいのでしょう私は。そうなんです。去年は保土ヶ谷から戸塚へと旧東海道を歩きましたので、今年は保土ヶ谷から神奈川へと歩こうと思っていたのですが、直線の多い旧東海道だけでは面白くないので古東海道を歩いてみようと思った、という話がしたかっただけです。
というワケで、今年は保土ヶ谷宿から神奈川宿へと古東海道を交えながら旧東海道を歩いてみようと思います。


まずは昨年と同じくJR保土ヶ谷駅に行きましょう。保土ヶ谷駅で降りるのは生涯で二回目です。つまり旧東海道散歩でしか訪れない土地なのです。

一年前と何も変わりがない保土ヶ谷駅

ここから旧東海道を戸塚方面へちょっと進みます。去年と同じコースですね。と言いますのも、古東海道と思われる道も確定していない部分も多いので、取りあえずJRの線路まで進んでみました。アバウトではありますが、まあこのJR線路際から古東海道と思われる旅を始めて参りたいと思います。

線路で行き止まりの道。南向き。この道を背中方面に進んでいきたいと思います

とかいっても単なる住宅街の細道を進みます。これが古東海道かどうか判らないまま進みます。どうせ確定していないのですからそれっぽい道を歩けば良いじゃないですか。
でも驚いたコトに歩いているウチにそれっぽくなってくるんですよね。山裾に沿ったユルくうねる細道に古東海道らしい風情を感じます。いいんですよ、それっぽければ。
その内に大蓮寺の辺りで古東海道の保土ヶ谷宿という石碑を見つけました。

江戸中期以降の保土ヶ谷宿よりも随分と神奈川宿よりです
石碑の向こうが大蓮寺。高台になっているのが判りますでしょうか

いかにも新しい石碑ですから本当かどうかは判りません。でも、この辺りがかつての保土ヶ谷宿だったという文献もありますので、あながち大外れというワケでもないと思われます。
そのまま進むと「古東海道」と彫られた石碑にも出会いました。こちらもいかにも新しい。でもまあ信じて進みましょう。

手前が保土ヶ谷、向こうが神奈川。何の変哲もない道ですが古東海道です

そうこうするうちに「旧古町橋跡」という看板に出会いました。保土ケ谷区役所が設置している看板ですから信用できると思われます。この看板には古東海道と旧東海道についての詳細も書かれていたので助かりました。

詳しく書かれているのでクリックしてお読み下さい
振り返って歩いてきた道を。向こうが保土ヶ谷方面です

なるほど。やはり今辿ってきた道が古東海道のようです。今は橋はありませんが、かつての帷子川は何度も流路が変わっていたそうですので、かつてはココに古町橋があり、その橋を渡るのが古東海道だったようです。
もう少し進むと相鉄天王町駅のそばに現在の古町橋がありました。

振り返って古町橋を見る。その奥の高架が相鉄天王町駅です

もう後はこの道沿いに歩いて行くだけです。古東海道と言うだけあって、微妙にウネりながら伸びているのが古街道好きにはたまらない。そしてすぐ横には高台があってグンと上り坂になっているのも確認しました。このように古街道は山裾に沿うように延びていることが多いのです。
保土ヶ谷駅辺りは標高が低く、縄文時代には入り海になっていたと言われています。その名残で山裾ギリギリに街道が走っていたのではないでしょうか。

沿道にあった延命地蔵尊も山際です

そんなこんなで歩いているウチに旧東海道と合流しました。この地点は「芝生しぼうの追分」と呼ばれています。つまり旧東海道と八王子道の分岐点なのですが、その八王子道の追分から古町橋のあたりは古東海道を転用したモノのようです。

街道の分岐点によくある地名、追分
右が古東海道、左が旧東海道。ここから背中方面の神奈川へと旧東海道を歩きます

ここからは旧東海道です。この追分と保土ヶ谷駅の間は商店街になっているコトもあって直線道路だし通行者も多い。でも追分から北の旧東海道は僅かながらもウネりながら北東に延びています。大通り(横浜環状1号線)と併走する交通量の少ない静かな通りです。

なるほど、旧東海道ですか。しかしこのマークが何を意味しているのかは判らない
この辺りの地名は南軽井沢っていうんですね。そして微妙にうねる古街道

北東向きから東向きへと道の流れが変わって、横浜駅の北方に掛かったあたりで急に上り坂になります。このあたりが「台町」。明治の頃までは現在の横浜駅辺りは海でして、この台町の崖が海岸線でした。旧東海道に沿って崖際に茶屋が並び、景色を売りにしていたそうです。

この橋の下は切り通しの道路ですから跨道橋です。正面が上り坂になっていますね
橋のたもとにあった解説板。このちょっと先から神奈川宿になるようです

神奈川宿のあたりは景勝地として有名だったようで、安藤広重の「東海道五十三次」の神奈川宿にもこの台町の旅籠や茶屋が描かれていますし、かの有名な葛飾北斎の「富嶽三十六景」の大波の浮世絵も、実は「神奈川沖浪裏」ですからこの辺りだと思われます。

幕末から明治初期まで設けられた関門跡。この辺りからが神奈川宿のようです
旅籠の名残と言われている田中屋。詳しくは次の写真を
左上の浮世絵が広重の神奈川宿。崖際の茶屋が描かれていますね

そして旧東横線跡の東横フラワーロードを横切ると、JRなどの線路によって旧東海道は途切れます。すぐそばの青木橋で線路を越えたところが京急の神奈川駅。県名ズバリの駅名ですが、なんだかこぢんまりとした可愛い駅です。

またしても線路で行き止まりの図。正面にチラッと旧東海道の続きが見えますね
青木橋で振り替えると中空に浮かぶ三宝寺がよく見えます。気になるよね

この駅前から延びる「宮前商店街」は今はほとんど商店が無い商店街ですが、これが旧東海道です。商店は無くともお寺がいくつかあり、横浜開港当初にはそれらの寺院が各国の公館として使われていたそうです。

商店街って書かれているのに商店はほとんどありません

短い商店街は第一京浜にぶつかって終わり、旧東海道はその第一京浜に飲み込まれて続いていきます。高速高架下の幅広道路にトラックとかバンバン走っていて、もう風情も何もあったもんじゃない。
第一京浜沿いにちょっと行くと「滝の橋」を渡るのですが、滝の橋の手前(神奈川駅側)が青木町本陣、滝の橋の向こう(東神奈川駅側)が神奈川町本陣。つまりこの滝の橋あたり一帯が神奈川宿というコトになります。

滝の橋から川崎方面を望む。もうただの大通りです
この辺りが神奈川宿の中心地。といってもそんな風情は一切ありません
少し離れたところにある高札場の復元模型。場所も違うし復元だし

これで保土ヶ谷宿から神奈川宿までの古東海道・旧東海道の旅は終わりです。お疲れ様でした。いかにも旧街道といった見所は多くはありませんが、あの巨大ターミナルである横浜駅のすぐそばに静かで気持ちの良い旧街道があるという体験ができるのでオススメです。


ええと、これで今回の旅が終わると思うでしょ。だって終わりって書いちゃったし。しかし、保土ヶ谷宿から神奈川宿まで、あっちこっちと寄り道したり写真を撮ったりしながらの約6km、約二時間の散歩はやっぱりちょっと物足りない。
まだ日も高いことですし、もう少し足を延ばして川崎宿方面に歩いてみようじゃないか。前々から行ってみたかったあそこまで。

というワケで、この続きは次回。興味が無くても続きます。最近、散歩話ばかりですみませんねえ。