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地テシ:383 「バサラオ」の基礎知識 鎌倉幕府滅亡篇

 劇団☆新感線「バサラオ」明治座公演も約三分の一が終わりました。博多座から随分とステージを重ねてきたような気がしているのですが、これでもまだ全ステージの半分にも達していないってんですから驚きです。ふう。
 もちろん10月には大阪公演もありますから先はまだまだ長いワケですが、そんな今、これから数回に渡って《知っておくと「バサラオ」がもう少し面白くなるかもしれない基礎知識》をまとめておきたいと思うのです。かもしれない運転。

 いやね、今作は一応「南北朝時代」をモチーフとしているのですよ。日本史の中でも「ややこしいだけで面白くない」と言われている時代なのですが、混沌としているからこそ脚色しやすく面白い時代でもあるのです。
 そんな南北朝近辺を「太平記」を中心にザックリとだけ見直してみたいと思うのです。いや、せいぜい中学や高校で習う日本史の範疇ですよ。一度は聞いたことのある事変とか人名とか、そういうのをちょっと思い出しておこうとか思ったというワケです。

 いやいや、決して「バサラオ」のネタバレって程ではありませんし、そもそも「バサラオ」は架空の《ヒノモト》という国で起こった物語です。その物語が日本の南北朝時代に似ているってだけなのです。

 ですので多分大丈夫だとは思うのですが、まだ「バサラオ」をご覧になっていない方で、前情報は僅かなりとも入れたくないという人は、今週からの数回は読まない方が良いかもしれません。……ただ、ここまでで既に南北朝っぽい設定だというのがもうバレちゃったコトは内緒だ……
 でもまあ、もうご覧になった方とか、まだ見てないけど日本史は軽く思い出しておきたいとか、そもそも見るつもりも無いという方ならば、どうぞ気にせずお読み下さいませ。どうぞどうぞ。




 さて、南北朝近辺といいましても範囲が広いのですが、ココでご説明致しますのは鎌倉末期から南北朝初期の、一番激しい闘いの行われた辺りです。ややこしくなる前の、割と判りやすいトコロですね。

 まずは鎌倉幕府の話から致しましょうか。一昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描かれたとおり、源頼朝が鎌倉に開いた鎌倉幕府では源氏将軍は三代しか続かず、以降は京都の公家や皇族から将軍を借りてきて、幕府の実権は執権である北条氏が握ることになりました。北条氏の力はどんどん強くなっていき、要職のほとんどは北条氏によって占められてしまいます。当然、他の武士たちは不満を募らせていきます。
 時代は下って鎌倉中期。中国の元が攻め込んでくる元寇が起こります。幕府は全国の武士たちを動員してなんとか撃退しますが、戦った武士たちに報償が出せません。だって海外から攻め込まれたのを撃退しただけだから、土地を奪えたワケではないからね。武士たちはタダ働きです。
 そんなこんなで、鎌倉末期には全国の武士たちを中心に幕府への不満が溜まっていたのです。

 倒幕される直前の鎌倉幕府で実権を握っていたのは14代執権の北条高時(ホウジョウタカトキ)。既に執権は引退していましたが、最大権力者であることは変わりません。
 また、北条得宗家の執事である内管領(うちのかんれい)も力を付け、この時代では長崎円喜(ナガサキエンキ)、長崎高資(ナガサキタカスケ)の親子も権勢を振るっていたようです。


 そんな中、後醍醐天皇(ゴダイゴ)が即位します。この後醍醐天皇という人は毀誉褒貶の激しい人で、愚か者だという説もあれば優れた政治家だという説もあってなんだかよく判りませんが、とにかく強烈で不屈の人ではあったようです。
 鎌倉末期に後醍醐天皇も絡んだ倒幕計画である正中の変が起こりますが、後醍醐天皇自身は無罪とされました。実際に倒幕の意思があったのかどうかは諸説ありますが、帝自身には天皇親政の考えはあったようです。

 そしてその七年後、後醍醐天皇は今度こそ本当に倒幕を計画し、でもその計画が密告され、慌てて挙兵したためスグに鎮圧され、帝は捕らえられて隠岐島へ流罪となります。この流罪の際には婆娑羅大名として有名な佐々木道誉(ササキドウヨ)らが道中警護を務めたと太平記には書かれています。
 ちなみに、隠岐島に流された後醍醐天皇に随っていたのは公卿の世尊寺行房千種忠顕、帝の寵姫である側室の阿野廉子(アノレンシ/カドコ)の三人だけで、島では粗末な小屋で質素な生活を強いられていたようです。
 しかし、皇子である護良親王(モリナガ/モリヨシ)、またの名を大塔宮(オオトウノミヤ)は畿内各地に潜伏しながら、各地の大名や土豪に倒幕の令旨を発しまくります。

 それに呼応するように各地で倒幕派が活動を始めます。中でも一番強固だったのが千早赤阪の楠木正成(クスノキマサシゲ)。巧みな籠城戦やゲリラ的な野戦などで幕府軍を翻弄します。
 太平記によれば、坂東一の弓取りと称されるほど強かった宇都宮公綱(ウツノミヤキンツナ)が幕府軍として楠木正成を攻めた時、公綱の武名を警戒した正成は逃げて隠れたそうです。公綱は戦わずして土地を取り戻しましたが、正成は莫大な数の篝火を焚き、驚いた公綱軍は都へと引き上げました。正面衝突していれば多くの死傷者を出したであろう闘いを回避したことで人々は両将の武略を賞賛したのだとか。まとめて書いちゃうとなんかパッとしないエピソードですけどね、太平記にはこう書かれているのよ。

 まあこのように、西日本を中心に各地で倒幕軍が蜂起し、幕府を悩ませていきます。そんな噂を聞きつけた後醍醐天皇もついに隠岐島を脱出するのです。そして伯耆の名和長年とともに船上山に軍を構えます。


 そんなこんなで、畿内と西国は大混乱。当時の京都を守っていたのは六波羅探題という幕府の出先機関です。六波羅軍と各地の倒幕軍、さらに比叡山などの山門勢力が入り乱れて大騒動。
 慌てた幕府は大軍を組んで京都に向かわせます。その時の司令官の一人が足利高氏(尊氏)。源氏の名門でありながら北条氏とも関係の深い足利一族の当主です。幕府軍は京都に落ち着いた後、分散して倒幕軍を迎え撃ちに行きます。
 足利高氏の軍は伯耆に構える後醍醐天皇軍の討伐に向かいますが、途中の丹波で反旗を翻し、各地の倒幕軍に檄を飛ばします。そして、播磨の赤松円心などを加えて大軍となり、六波羅探題を滅ぼします。
 時の六波羅探題である北条仲時北条時益(ホウジョウトキマス)は鎌倉へと落ち延びようとしますが追いつかれ、仲時は自刃し、時益は討ち取られます。
 そして、倒幕軍は後醍醐天皇を京都に迎え入れるのです。

 ちょうど同じ頃の関東では、こちらも源氏の名門である新田一族の新田義貞(ニッタヨシサダ)も倒幕の軍を挙げます。上野国新田荘から真南に真っ直ぐ進軍して、そのまま鎌倉を攻略してしまいます。北条高時や長崎円喜・高資など、鎌倉幕府の重臣たちは東勝寺に籠もって自害して果て、ここに鎌倉幕府は滅亡したのです。滅亡したのであります。


 ええと、こんなカンジの鎌倉幕府滅亡の一幕。取りあえず駆け足でまとめてみました。簡潔にするために要点のみに絞っておりますので随分と端折った部分もありますし、間違っている部分もあるかもしれませんが、まあこれくらいを知っておくと「バサラオ」をより楽しめるかもしれません。楽しめないかもしれません。まあ、別に知らなくても大丈夫なんですけどね。


 なんだか長くなってしまったので今回はここまで。次回は後醍醐天皇による建武の新政あたりをまとめてみたいと思います。じゃあまた! とかいうと、なんだか歴史系YouTuberみたいですね。じゃあ、チャンネル登録をお願いします!