地テシ:384 「バサラオ」の基礎知識 建武の新政篇
日本の南西から列島に沿うように進行している台風10号。皆様におかれましては大きな被害など受けておられませんでしょうか。沖縄・九州・東海地方の方々は特に大変だったと思われますが、まだまだ全国的に天気は不安定です。充分にお気をつけ下さいませ。
さて、《「バサラオ」が更に面白くなるかもしれない運転》の第二回は建武の新政について、例によってザックリとまとめていきましょう。鎌倉幕府が滅亡して後醍醐天皇による親政が始まったという歴史的事実をまとめておきたいというだけですので、前回と同様に「バサラオ」とは直接の関係はありません。
ですが、今作のモデルである南北朝近辺の話ではありますので、似ている部分もあったりなかったりします。ネタバレというほどではありませんが、気になる人はこの先は読まない方が良いでしょう。いいですね、言いましたよ。
前回は鎌倉幕府が滅亡しました、というトコロまでまとめてみました。幕府に対する全国の武士たちの不満と、後醍醐天皇の親政への執念が重なり合い、戦が始まってからはあっという間に滅亡してしまいました。意外とあっけないモノなのですね。
そして、後醍醐帝は天皇による親政を開始し、《建武》と改元します。これがいわゆる「建武の新政」ですね。
ただね、この建武の新政ってのが問題でしてね。なんていうか、クセの強い急進的な改革だったのです。それが故に僅か二年半で崩壊し、室町幕府の成立と南北朝時代へと突入していくことになるのです。
というのを学校の日本史の授業で習ったと思います。まあね、この辺りはややこしいだけであまり面白くありませんから、授業でもサラッとしか触られなかったように思います。ここで軽く思い出してみましょうか。
一般に「後醍醐天皇の建武の新政は、鎌倉倒幕に功のあった武士たちよりも公家たちに重きを置いたために、不満を持った武士たちが足利尊氏の元に集い室町幕府を立てることになり、ごく短い期間で失敗に終わった」と説明されます。
確かにまとめてしまえばこうなるのですが、これだけに収まらないもっとややこしい事情があったようです。理想主義だった後醍醐帝は従来の序列などを無視して、能力に応じた人事で天皇に集権された政治を始めようとします。それが故に、武士たちだけでなく公家たちにも従来の慣習とは違う配置などを強要し、現場は大混乱になったようですよ。
そんな混乱を端的に表しているのが「二条河原落書(にじょうがわららくしょ)」でしょう。建武の新政に対する批判を、七五調でリズム良く描いた落書(匿名の政治批判文書)で、作者不詳ではありますが相当に教養のある者が書いたようです。
「此の頃 都にはやる物 夜討ち 強盗 偽綸旨」から始まる長文は、公家に限らず武士、僧侶、民衆に至るまで、相手を選ばぬ全方位攻撃でこの時期の京都を風刺しまくります。それほどまでに混乱した時代だったのでしょう。そしてこの落書が評判になるほど、この建武という時代に都の人々はうんざりしていたってコトですよね。
さて、そもそも後醍醐天皇とはいかなる人物だったのか。歴史家の中でも様々な捉えられ方をしているようですし、色々と膨らまし甲斐のある存在ではあります。浅学ではありますが、私なりにとりあえず簡単にまとめてみました。
鎌倉時代の終盤頃、天皇即位の順番には《両統迭立(りょうとうてつりつ)》という不文律がありました。大覚寺統と持明院統という、二つの皇統から交互に天皇が出るという慣例です。
で、その順番によって後醍醐天皇が即位したのですが、どうやら後醍醐帝は自分の皇統に一本化したかったようなんですよね。まだ鎌倉幕府がある内から自らが政治を行う親政を西日本を中心に始め、鎌倉幕府滅亡によって政権が武家から朝廷に戻ったのを機に、全国的に新しい政治である《建武の新政》を始めます。
その新政の手本となったのが中国・宋の専制君主政治です。全ての権限が天皇に集中する政治でして実に強固な政権ではあるのですが、それも有能な官僚たちあってのもの。そんな急に新しい政治を始めるったって、簡単に移行できるわけがありません。
それまでの朝廷には《それぞれの官職はそれぞれの一族が世襲で請け負っていく》「官司請負」という慣例があったのですが、後醍醐帝はそれを否定するような人事を行い、これまではある官位以上の者しか成れなかった役職に序列の低い者を立てたり、またはその逆だったり、あるいはお気に入りの武士を登用したりと強引な手段で宮廷改革を行います。
また、倒幕に功のあった武士たちはもちろん領地を欲しがりますが、その領地の分配も帝自らが行うとして、まずは現在の領地を申告しろと決めました。すると全国の武士たちが大量に窓口に押し寄せます。当然ながら担当部署は大混乱です。
それから、京の商工業、寺社勢力を掌握しようとしたり、悪党や異形の者たちが朝廷内を闊歩したり、とにかくそれまでの価値観とは大きく異なる政治哲学を振りかざし、自分の理想とする政治を実現しようとムリヤリに押し通そうとします。そりゃあ、反感も多くなるでしょうよ。
そして結局、武士たちの離反によって京都から追い出され、建武の新政は瓦解することになるのです。しかし、さすがは不撓不屈の後醍醐帝です。吉野山に籠もって南朝を開き、南北朝時代が始まるというワケです。
なお、歴史学者・網野善彦さんの「異形の王権」(平凡社ライブラリー)ではこのような、これまでとは違った後醍醐天皇像がまとめられており、大変興味深い視点を与えてくれます。気になる方は是非ご一読を。
さて、ここまででも長い説明となってしまいましたので、ここからはチーム後醍醐の面々をサラッとだけご紹介しておきましょう。
まずは帝の宗教的な支えとも言える文観房弘真(モンカンボウコウシン)について。文観は律僧でありながら真言密教にも通じ、大僧正や東寺一長者にまで上り詰めた僧です。また、仏教学をまとめる学僧でもあり、美しい絵を残した画僧でもありました。
このように多才で優れた僧だったようなのですが、なにやら怪しい面も持っていたようです。特に網野史観ではかなり怪しげな術を行う僧として解説されており、高野山からは《「専ら呪術を習い、修験を立て」「荼枳尼」を祀り「呪術訛文」を通じて後醍醐に近づき》と訴えられているとも書かれています。
後醍醐帝も文観に秘術を伝授されて、帝みずから法服を着て祈祷などを行ったとか。文観は真言密教と陰陽道が混合した流派である《立川流》の大成者という説もあるほどです。
もちろんどこまでが真実かは判りませんが、優れた僧でありながら南北朝期の活動や立ち位置から様々な憶測が立てられやすい人物ではあります。
次は阿野廉子(アノレンシ/カドコ)について。後醍醐帝の側室にして寵姫であり、帝との間には幾人もの皇子があります。太平記では傾城の悪女として描かれているのでその印象が強いのですが、実際にそうであったのかどうかは定かではありません。
ただ、後醍醐帝自身も、他の妃との皇子よりも阿野廉子との皇子の方を重視するようになっていったようですし、帝の死後は南朝の政治に参加したのも事実のようです。
まあ、文観にしても廉子にしても、後年からの視点で描かれた太平記では悪く描かれがちになってしまうと思いますので、そのまま鵜呑みにするわけにはいかないんですけれどもね。
最後は後の三房(のちのさんぼう)について。後醍醐帝の側近の公卿に万里小路宣房(マデノコウジノブフサ)、吉田定房(ヨシダサダフサ)、北畠親房(キタバタケチカフサ)という三人がおりまして、これを称して《後の三房》と呼びます。
なぜ「後の」と付いているかといいますと、平安時代の後三条天皇の頃にも名前に「房」の付く三人の賢臣がおりまして、こちらが《三房》と呼ばれていたからですね。この《後の三房》は建武の新政の頃にそれぞれ朝廷内で重要な役割を果たしました。
そんなこんなの建武の新政。ちょっと急いでまとめたので散漫になってしまったかもしれませんが、とりあえずザックリとだけでもお判り頂けますれば幸いです。うん、まあザックリで大丈夫です。私もザックリと書きましたし。いいんですよ、世の中はザックリで。
来週は南北朝時代の始まり辺りをザックリとまとめてみたいと思いますけど、それよりも! 来週9/7は日本全国(+台湾)でライブビューイングですぜ! どうぞお楽しみに!
ええとそれから、「バサラオ」とは関係ないのですが、ちょっとだけ。「スター・ウォーズ 無法者たち(Star Wars Outlaws)」が楽しいよ!
スター・ウォーズのゲームで初となるオープンワールドシステムを採用しているので、惑星を自由に探索しながら冒険できます。主人公はジェダイでもなんでもないタダの盗賊でして、映画でいえばハン・ソロっぽいキャラクターですかね。ブラスター片手に時に慎重に、時に大胆に、相棒のニックスと共にドキドキハラハラの大冒険をしますよ。
盗賊ですので今のところ潜入ミッションが多くてスニークアクションが中心ですが、クエストの最後にはハデな銃撃戦になったりして色々と楽しめます。
8/30の発売ですが、私は3日間のアーリーアクセスがあったので8/27からもうプレイしまくっていますよ。「スター・ウォーズ」好きにも、そうでない方にもオススメできますので、気になる人はゼヒ! I'm in!