≒(ニアリーイコール)

ヒートウェイブのアルバム「1995」が世に放たれたのはその名のとおり1995年だ。このアルバムには我らが佐野元春(以後、佐野先輩)がプロデュースした曲が2曲収録されている。そして僕にとって特別な曲「満月の夕」が収録されているのもこのアルバム。

同じ年。ハートランド解散後の第一弾として「十代の潜水生活」がリリースされた。PVはスタジオ風景で久しぶりのバンドセッション(当時はまだバンドではなかったが)を楽しむ様子が見られた。

この年、1995年は色々なことが起こりすぎた。年頭の阪神淡路大震災。春先には凶団による地下鉄有毒ガステロ事件。この事件を受けてと言うわけではないだろうが、“すべての尊師”、“誰が何を信じていてもかまわない”という歌詞はタイムリー過ぎる感もあった。

1995年について考察しようというわけではない。前振りが長過ぎた。
佐野元春について考察しようとした時、真っ先に頭に浮かんだのが「共同幻想体としての佐野元春」という言葉で、このことについて考えてみるのも悪くないな、と。

アーティスト(ミュージシャン)とそれを支える熱狂的なファンの関係は、ある種宗教的だとよく言われる。強ち間違いではないし、何も佐野先輩だけに限ったことではない。
作品、世界観が好きな人とそれを含め生き方、姿勢が好きな人。後者の場合ほとんどは“お布施”(ファンクラブ会員)も払ってるし(笑)

ただ、僕らが見ているのは幻想であり実像ではない。けれども、佐野先輩の場合は幻想ニアリーイコール実像じゃないかな。

要は「誰が何を信じていてもかまわない」のだけど。

佐野先輩を一躍有名にしたのは、みんなが80年代を代表する曲として2番目に挙げる「SOMEDAY」なんだが、恐らく本人には特別こだわりがなく、もうみんなの歌だから(でも、僕の歌だ!)とファンサービスの一部として。

実際、一時期のライヴでは演らなかった時もあって、その時の一部のファンからのあからさまに不満を口にする声も聞こえていた。

某トークバラエティよろしく、“SOMEDAY芸人”なファンじゃないので僕は別にかまわないし、むしろライヴでも新しい曲を聴きたい。アルバム「コヨーテ」を出した時の佐野先輩の言葉を覚えているだろうか。

「再び僕の音楽をメインストリームにおく」

そう言っていたことを。共に歳を重ねてきたファン層よりもむしろ、新しいファン、若年層の聴き手に向けて常に最新作で勝負する。ロックンロールは何も10代や20代だけの音楽ではないのだけど、彼らこそが今のメインストリームの音楽を聴いているのだから。

「何これ⁈ 佐野元春、凄え!カッケー!」

みたいな。実際、ライヴを観た若年層からはそう言った声も多数あった。

過去の偉業や功績に縋って、俺って凄いだろ?って言うのは実は一番カッコ悪い。常に現在の自分で勝負すると言う姿はイチローや三浦カズにも共通する。

2017年初夏。ファンクラブ会報誌で自ら新!宣言をしているようだが、佐野先輩は常に新しく革新(確信)的だし、それこそが佐野元春たる所以じゃないのではないか。拡大再生産ではある意味予定調和になり、良い意味で裏切るためにサムシングニューを常に探し求める。

顕著な例が「SOMEDAY」後の「Visitors」であり、近年であればダ・コヨーテバンドの結成だ。

しかしこのことは実は、80年代後半のある音楽誌の創刊インタビューで語られていて、予告されていたと言える。

「僕のリベンジ(復讐)は一生続いてゆく」と。

今頃気づくとは、不覚。確かに焼き直しじゃリベンジにならないもんな。

こっちでライヴが決まるとテレビスポットも流され、その時のBGMは一番新しい曲が使われてるんだけど、決まって最後にSOMEDAY!って一声が入る。最近だと、

君がそこに待ってる~♫ SOMEDAY!

って。アレ、嫌なんだよね。やめて欲しいよね(笑)
いよいよ何が言いたいのか分からなくなってきたところで(笑)

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