わらじ履きの宣教師

西郷に洗礼を施したバラ宣教師の日課は、住まいにしていた成仏寺から南に1時間ほどの所にある小高い丘まで毎朝散歩に出かけることだった。大きな松の老木の根元に座り、眼下に見渡す横浜を見ながら、日本の救霊のために毎朝祈りこんでいたという。

  彼は、横浜海岸教会設立の7年後の明治12 年、静岡、伊豆、神奈川、山梨、東京、岐阜、信州、盛岡に至るまで伝道の徒歩行脚を敢行した熱情の器だった。

  三島から御殿場の伝道旅行の際、三島大社前で路傍伝道している姿は、何とつぎはぎだらけの服にわらじ履きという出立ちだったという。雨傘にいたっては、よくもこんなに使い古したものだと思えるようなボロ傘を携え平気で使用しておられたそうである。集まった人々から罵詈雑言を浴びせられ誹謗中傷を受け、投げられた石はバラ宣教師の頭に命中する。

  投石した澤田慶太郎という青年は後に改心し御殿場伝道所の責任者となるのである。バラ宣教師によって蒔かれた福音の種子は今や大きく育ち実を結んで現在に至っていることを、バラ宣教師の逸話共々「御殿場教会の歴史」は伝えている。

  迫害を受けながらもめげることなく、大胆にそして懸命に、たどたどしくも難解な日本語を使いながらも、その熱烈さはいささかも冷めることなく、彼の愛して止まない日本人に向けられて発せられていったのである。バラ宣教師による伝道の結実は各地に連綿と続いて現在に至っている。神だけを拠り所に、お寺からお寺へと宿を乞い求めながら、福音の種子を徒歩で蒔き続けたという、宣教師バラの神の僕としての強固な使命感と燃えるような神と人への愛をもって、日本の各地に伝道行脚した熱烈にして捨身の尊い信仰の足跡は、時代を超えて現代に生きる我々の心を打ち続けて止まない。

                    INRI研究所

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