髭を剃った日
エッセイ「髭を剃る」
久保田ひかる
それはある火曜日の夜の事でした。
久方ぶりに言葉を残そうと思った私の心境はなんだったのでしょうか。
夕方までは良かったのです。ただ目前に迫った、単純作業の仕事に憂いていられたのですから。現実に憂いている幸せというのは、その時には気づかないものです。現実に憂いて、空想を忘れられるとしたら、それはとても素晴らしい事なのに。
確か、仕事が終わった頃は上機嫌だったのです。たまたま寄った店で中南海を一箱買って、これが大陸の味か、などと思いながら自転車を走らせました。初夏の夜の空気は気持ちのいいものでした。湿気を帯びた重い空気が快く感じられるのは、まだ乾燥した空気を忘れない初夏の頃の特権だと思うのです。
家に帰った頃からおかしくなりました。
なんだか気が急いているのです。寝なくてはならない。そう強く思いました。夕方の頃には仕事が終わったら何か素敵な食べ物でも買って帰ろうと思っていましたが、仕事の前に胃に詰め込んだファストフードの油と塩はまだ私の胃を十分に占領していました。思い返せばそれがいけなかったのかもしれません。何も食べずに寝ようと思いましたが、なんだかそんな気分になれませんでした。
そこで私は珈琲を一杯入れました。私の家の棚には美味しいモカがありましたから。普段の私は、酸味が強い珈琲はあまり好まないのですが、それは別でした。田舎の両親が送ってくれた珈琲が口に合うというのもなんだか腹の立つようで、自分の若輩さが身にしみるようでしたが、それでも珈琲は美味しくありました。
私はベランダに立って珈琲を飲みながらキャメルに火をつけました。キャメルの箱というものは素敵です。黒地に銀色でラクダが切り抜かれた角の落ちた四角いそれは、洗練されたデザインだと思います。中身の味のカラリと乾いたのも相まって、私の琴線を震わせました。ジッポの油の香りも好きでした。そのひと時だけ、私は世界で最も幸福であるかのような気すらしました。それもそうです。明け方の4時に起きている者など大半が不幸なのですから。幸福なものは全て夢の中で、夢の中で幸福なものは現実で幸福とは言えませんものね。
明け方のベランダで幸福を感じた私は続けざまに2本目を灰にしようと試みました。しかし、2本目はなんだかやけにいがらっぽく感じました。喉に引っかかって私を痛めつけてくるのです。やはり私のような虚弱者には、素面では一本灰にすることが部相応な幸せなのでしょう。
2本目が根元まで灰になる頃には、あの独特の倦怠感が襲ってきました。美味しいものは全て毒なのです。毒を食らう事こそが幸福と頭では思っていても体がついてきませんでした。
ため息をついてベランダに座り込むと立ち上がれなくなりました。珈琲をカップの半分ほどしか淹れなかったのを、深く公開したのを覚えています。喉のいがらっぽさを洗い流したいと思いましたが、すぐに立ち上がる気力はタバコと一緒に燃え尽きてしまったように思えました。しかし、溜め息をつくのはもうやめました。一人で自らのため息を聞くほど虚しいことはないと思うのです。あれは悲しいことです。
少しの間そうして座り込んでいると、少しずつ空の色が変わり始めました。自分の心も空とともに明るくなって行く。そう強く信じ込みました。暗示をかけるくらいが、その時の私に残された術でしたよ。
少ない友人の顔がいくつか頭をよぎりました。その全てが幸せそうな寝顔でした。私の友人に限って幸せな顔で寝ているはずなどないのです。それでも、幸福そうな寝顔ばかりがよぎりました。ただ悲しい気分になって、せめてもの救いを求めて、彼らが本当にそんな顔をして寝ていることを願いました。友人を妬むことは、ため息を一人聞くのと同じくらい不幸な事です。綺麗事だとあなたは言うかもしれません。しかし、本当に綺麗に生きられたらどんなに幸福だろうかと、そう思わずにはいられない私をお許しください。
立ち上がって洗濯物をして食器を洗おうと決意しました。健康な生活は健康な肉体を作り、健康な肉体にこそ健康な精神が宿る。昔の人はなかなか賢いと私は思います。まずは、寝間着をシャツに着替える事から始めようと思います。明日の服は明日を呼ぶのです。それから髭を剃ろうと思います。何ということではないのですが、鏡に映る自分の顔が少しはマシな人間に見えるでしょうから。