見出し画像

【糸満の成り立ち】①

こんにちは。まちてらっ子です!
今回は糸満の成り立ちについて琉球時代から説明していくよ。
ちょっと長いからいくつかにわけていくね!
NPO法人ハマスーキさんが本を作ってくれたから、その本の中身を紹介していくよ!


1:南山と明との交易

1400年前後の琉球には北山、中山、南山という3つの王統がありました。どの王統も中国の明と交易をおこない繁栄していました。南山王統は1380年〜1429年にかけて成立し、中国の明に進貢船を27回送りました。その際の発着地が報徳川河口にある唐船崎であったとされています。中国から戻ってきた進貢船は中国からの品物を照屋グスクにあげて、それから南山グスクに運んだと言われています。


2:南山と爬龍船競漕

南山王統の3代目であり、豊見城グスクを築いた汪応祖は明の南京に留学した際に爬龍船競漕を見て、琉球でもこの行事を行いたいとグスクの眼下の漫湖で爬龍船競漕を始めたと伝えられています。南山の5代目の王となる他魯毎(タロマイ)は、1429年に中山王の尚巴志に攻め入られ、東シナ海と糸満の村を見下ろすサンテンモーで自害しました。その墓は現在も子孫たちが大事に守っております。


3:琉球王府の時代

1429年、中山が三山を統一し琉球王府が成立しました。琉球王府の中国への進貢船にはサメ皮、タカラガイやヤコウガイが含まれていたといいます。1500年ごろには糸満沿岸に漁労のために移住する人たちが増えてきました。その結果として、造船需要も増えていったのでしょうが、王府は大型船進貢船の材料確保の観点からクリ船の造船を禁じ、代わってハギ舟を奨励しました。

4:難破船の救助・糸満漁業の発展

琉球王府のころから糸満の漁師は、伊江島沖など遠くまで出漁していました。その途上で難破船の乗組員の救助に貢献していたことが球陽などの古文書に記録されています。遠方への出漁は当時から糸満の漁師が獲物を求めて他所の地域に進出しいていることを示しています。一方、他所の地域への進出は、地元の漁業権の争いとなりました。

【参考資料:NPO法人ハマスーキ】

はい!今日はここまで!
まだまだ糸満の歴史が続くよー
次もお楽しみに!じゃあねー🤚

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?