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別れの言葉

先日、大阪は池田市のギャラリーカフェGULIGULIさんでチャイ教室を開催した。
前回伺った時はスタッフの方へ向けてだったが、今回は一般のお客さんたちに向けて。関西ではじめての開催となった。

今までチャイ教室で訪れた土地は、埼玉、東京、神奈川、長野、愛知、大阪。
普段旅をしないので、仕事で遠出できるのは引きこもりを連れ出してもらっているようでありがたい。

大阪で印象に残ったのは、会場を後にする人たちの挨拶だった。
半分くらいの人が「さようなら」と言って立ち去っていく。

「さようなら」を最後に言ったのは、いつだろう。
音の響きから記憶をたぐり寄せると「先生、さようなら」だった。
学生の時にはよく使っていたのかもしれない。
チャイ教室ではわたしが先生でお客さんが生徒だから、その挨拶も不思議ではないのだろう。でも今まで言われたことはなかったと思う。
「さようなら」には、最後の「ら」の後に次へ向かう先への余韻みたいなものがある。
言った人の姿にぼんやりくっついてすーっと消える。
見えなくなる言葉。
使われてみると、すてきな挨拶だなと思った。

長野の諏訪に行った時は、朝の公衆浴場で「ごめんください」と言ってお風呂から出ていく地元のお姉さんたちがいた。
熱い湯船に浸かりながら「ごめんください」は人の家に入る時に使う時だけじゃなくて、出ていく時にも使える言葉なんだ、と思った。
「ごめんください」には、使う人の存在がくっきり見える。
相手に敬意は払いつつ「出ます」「入ります」「ここにいます」と意思がある。
私を示す、挨拶なのかもしれない。

東京で暮らしている時、小田急線に乗って新宿へ向かう途中、隣に座った外国人に声をかけられた。
携帯で漢字の変換がうまくいかないらしい。
どうやらこれから仕事仲間と屋形船に乗るらしく、電車の乗り換えを検索しようとしていた。
「すごく楽しみなんだ。いいでしょ?」と自慢された。
彼は乗り換えの駅に着くと「またね!」と片手をあげて、熱された空気の入れ替わりと共に電車を降りて行った。
たぶんもう二度と会わないのに、それでも「またね」と言うのは、ちょっといい気がした。
明るく、希望があって、軽率な挨拶。
それ以来、わたしはどんな人にも「またね」を使うことが増えた。

生まれ育った秩父では、仕事終わりに「お世話になりました」と挨拶する。
明日も働くけど、毎日「お世話になりました」
明日から来なくなる場合には「今までお世話になりました」
ちなみに、仕事始まりには「お世話になります」である。
「せやねぇけぇ?」は、「世話はないかい?」で「大丈夫?」の意味だったりする。
きっと明日も「お世話になる」んだろう。
生まれる前から、これからも誰かとの関係が続いていくような挨拶だ。

また他の土地に行く時には、その土地の別れの挨拶に出逢うのだろう。

前向きな気持ちをわざと少し含ませて、自分のために挨拶をする。


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