他人の評価が全て



私は「他人の評価が全て」という呪いにかかっている。随分仲間い間この価値観が世の中の価値観なのだと思って生きてきた。今は少し違うのかもと思ってはいるが…。
「やったつもりはやってないのと同じ」「お前がやったつもりでも相手がやってないと言ったらやってない。」
幼い時、尊敬する大好きな父にこんな言葉をよく言われた。幼稚園の頃から高校の頃まで、ずっと言われていたと思う。
それに加えて「口答えするな!」「あんたはいっつも言い訳ばっかり!」「ああ言えばこう言う!」と、母によく怒鳴られていた事もあり、反論や意見、説明までも全て"言い訳"と認識していた。
怒られているのは自分のせい、人から見て何もしていないのはやっていないのと同じ。そんなふうに私の他人軸は出来上がった。自分で考えることが苦手な私は恐らくその頃から苦手だったのだろう。幼稚園の頃から人に言われたことや聞いた話は全て本当だと思っていたから疑うようなことなんてなかった。まぁ、幼稚園の頃なんて無知で親の言うことが全てだと思うようなものだとも思うが、その価値観が随分染み付いてしまって、なんとなく違うのかもしれないと思っていてもずっと変われないでいる。
買われないのは努力をしていないから、なんて言われてしまうと何も言い返せないのだが、「"言い訳"をしたら怒られてしまうし、自分の非を認めない幼稚なやつと思われてしまう。」というのはもはや条件反射だし、怒られるということは自分が悪いわけだから評価は下がり、失望されてしまうということなのだ。つまり怒られると私はサンドバックになりさがってしまう。自分の評価をそれ以上下げられたくないので、説明や、訂正する武器も持っていない私は黙ってしまう。意見を尋ねられてもなんて答えればいいのかわからないのだ。仮になにかの疑いをかけられても忘れっぽく、うっかりミスの多い私は口が裂けても「自分じゃない。」なんて言葉は言えない。相手が私を疑うのにも理由があるだろうし、相手にその理由をつけられたのが私の評価だから、どんな言葉を返してもそれは"言い訳"にしかならない。しかし言い訳は悪。私にはどうすることも出来ない。 本当に手も足も口も出せない状況なのだ。

私にはこれを自覚する出来事があった。ミスしたら死ぬと思ってバイトをしていた私は店長からやる気がないと判断され、軽いお叱りを受けたことがある。もちろん、ミスしないように、ミスして余計な仕事を増やさないように、と一生懸命働いていたつもりだった。ただ、当時の私には「ミスをしたらクビになる。」という強迫観念がそこそこあったせいで、やる気がないと判断されても仕方がない態度だったとは思う。「やる気がない」評価を受けた私は、「あぁそうか、今のままでは全然ダメなのか。頑張らないと。」なんて思っていた。そして問題はその後の言葉だった。

「どうなの?やる気あるの?」

え?いや、どうなのって……今やる気がないって判断されたんだけど……、どうなのってどういうこと?この人は何を求めてるの?なんて返したら正解なの?あれ?でもこれは何を言っても言い訳だから結局何を言っても怒られるわけで、評価は下がるわけで、でもやる気がないなんて言ったらもっと怒られるし、そんな程度の気持ちで働いてたなんてそれこそ本当に失望されてしまう、嫌われてしまう。
なんて考えが瞬時に身体中に駆け巡ってしまって何も言えなくなってしまったのだ。本当に喉で息が詰まって声が出なくなってしまっていた。声は出ないくせに「どうなのって聞いてるんだけど。」と繰り返される問いに最終的に涙が止まらなくなってしまって、もう全てがダメになってしまった。

この時は本当に困ってしまった。本当に何も言えないし、空気が喉に詰まってしまって息をするのがやっとだった。私はそんな素振りを見せていないからそんな状態だったとは誰も思ってないと思うが。
今までは黙っていれば叱責が長引くことはなかったし、余計に怒られるようなこともなかったから、相手の意見を黙って受けることが正攻法だと思っていた。しかし、それがもしかしたらダメなことなのでは?と気づいてしまった瞬間から私の苦悩はさらに深くなったのだ。

その出来事から私は自分のことを色々考え、人の評価が全てだと考えすぎていたと結論を出したが、それに気づいた時、私は自分の性格や趣味嗜好までも他人の評価で決めていたことに気づいてしまったのだ。短大1年目にして今までの自分はなんだったのだろうという沼にハマってしまった。何せ、当時ハマっていたものや、ゲームも音楽も周りに合わせたものだったから。友人が「このグループが好き。」と言えば私もそのグループを好きになったし、「あの先生が嫌い。」と言えば私も距離を取るような人生だった。服の好みでさえ相手が不快にならないものをチョイスしていたからメイクやファッションでさえも「変じゃない。」の一言がなければ身につけることが出来なかった。
今は自分でおかしくない基準を設けてそこからはみ出さないようなファッションやメイクをするようにしてなんとか生きているが、時々それが酷く窮屈に感じる。みんな好きな服を自信を持って着ている姿、なんと言われようと好きなものを追い続ける姿。そんなものが羨ましくてし仕方ない。どんなに自分には無い、身の丈にあった生活をしようと言い聞かせても、恋焦がれるように世の中のそういった人達が羨ましくて憎らしくてたまらない。良い評価も悪い評価もじ自分に下すことの出来ない私は本当になんなのだろうと、強く思う。私はそれら全てが酷く悲しいのだ。この汚い心も、何も無い空っぽな自分も。それはもう自分の死を願ってしまうほどにとても悲しいのだ。

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