何を見ても何かを思い出す

柔らかな五月の光が私たちを照らしていた。
真っ白に輝く小道には美しさ以外の何物も見当たらなかった。
街を歩く人々は軽やかな足取りで、其々のやり方でこの特別な休日を祝福しているように見えた。
例えば運命の神様が鋭いナイフを明日私の心臓に突き立てるのだとしても、それは今日の私の幸福になんら関係のない、遥か遠い明日の私が享受すべき出来事だと思った。
悲哀や恐怖の感情さえも現在の幸福に加担してしまうような、暗闇もこの歓喜の前に自らの正体を明らかにせざるを得ないような、実のところこの世界の全てが愛の方向へと運命付けられているのだという事実を、あの日の光は歴然と私たちに示していた。
私たちはその光と溶け合いながら、まるで一人の人間であるかのように、一寸のずれもなく同じ美しさを共有していたと思う。
あの日がどういうふうに終っていったのかを私はもう思い出すことができない。
私たちを乗せた電車はどこに向かったろうか。
けして終わることがない一日は、心の中に蘇る原風景の具体的な一部として私の心臓に溶け込んでいったのだろう。

カーテンの向こうから、新しい夏の夜が生まれる音が聞こえている。

2014.5.26

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