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スノーホワイト/ロイヤルブルー

あの日の私にとってそれは、幸福への真摯な祈りだったのだと思う。

特急電車はひたすら北へと向かっている。車窓から見える風景はオレンジ色に輝きながら暮れなずむ。電車に乗り込んだのは昼前だったというのにもう日が暮れてしまう。
君の住む街はこんなにも遠い場所にあるのかと、私は改めて実感する。
冬休みだというのに車内はがらがらに空いていて、四人掛けのボックス席には私一人だった。
薄暗い電車の窓に、白くて歪な形をした私の顔が映っている。左の頬骨が異様なほどでっぱった輪郭、ナイフで切り込みを入れたような鋭い一重瞼。
いつからこんなに鬱々とした可愛げのない顔になってしまったんだろう。自分でいうのもなんだけど、小さい頃の私はけっこういい線いっていて、近所のおじいさんの間でも有名な人気者だったのに。
私が長い前髪の隙間から世界を覗き込む時、眼差しが卑屈になってしまう事をきちんと自覚している。でもどうしようもないのだ。
窓にふっと息を吐いてから、指先でクローバーと、王冠と、ダイアを書いてみる。窓の外は随分と寒いようだ。
今日のために用意した、ロイヤルブルーに金ボタンの付いたコートは、やっぱり今の自分には派手すぎたかもしれない。
知らない誰かが暮らす街並みを、電車が足早に通り抜けていく。窓から見える冬の夕暮れは、私をひどく感傷的にさせる。
この気持ちを色に例えるなら絶対に淡いモスグリーンだ。それだけはゆずれない事だと私は思う。なんだか懐かしくて、少し寂しい夢の中にいるようだ。
私の空想の中にしか存在しないような気がしていた、あなたが暮らしている街。
そうだ、私は電車に乗っていくつもの夜と、昼と、朝を駆け抜けているんだ。時間が伸び縮みしながらある一点に収束していくような錯覚に目眩がして、私はポテトチップスをぱりぽりと頬張る。
あと一時間もすれば私は、街灯に照らされて輝く真っ白な雪を踏みしめて、知らない街を歩くだろう。
電車は刻一刻、君へと確実に近づいている。

ねえ、約束なんて全部忘れてしまうものだと思っていたのに。

パパとママが離婚したのは、私が十歳の頃の事だ。
始まりは覚えていない。けど、終わりの情景ははっきりと残っている。
「あの人が愛しているのは'"僕の奥さん"という名前のついた箱なの。ある日箱の中身が変わってたってあの人は気付きやしないの。」
引越し用のトラックを運転しながら、助手席の私に向かってママはそう呟いた。トラックの車窓から、懐かしい街並みがどんどん遠くなって行くのが見えた。
やがてママは、彼女に熱烈に恋していて、好きだ愛してるリスペクトユー、君が居ない世界に生きる意味なんてない!と言っている、歳下の男の人との熱烈な恋愛の末に、周囲の反対を押し切って再婚した。
私はママに連れられて、ママの恋人が暮らす新しい街に引っ越した。ママは恋人との生活に夢中で、私には無関心なように思えた。新しい街にも、そして当然のように新しい学校にも、私はうまく馴染む事ができなかった。

何を見ても何かを思い出す、でも何が懐かしくて仕方ないのかを正確に思い出すことはできなくて、私はいつも空想と妄想の世界に没入している頭のおかしな女の子だったと思う。
クラスメイトが私を拒否したのが先か、私が彼らを拒否したのが先かは分からない。
例えばそれは、ある日突然日本に放り込まれて混乱している、インド人の気持ちと良く似ていた。
私は恥ずかしくて仕方なかった。
カレーの芳香を漂わせながら巻き舌で異国語ををまくし立てて周囲を狼狽させるなんて赤面の至り。
それならいっそのこと誰も私に気づかないでいて。私はここにいません、壁です。私、壁なんです。そんな気持ちだった。

私が彼女を見つけたのは、13歳の夏のことだった。あの夏は特に、うだるように暑い夏だったことを覚えている。
中学の入学祝いに叔父さんが買ってくれたパソコンをインターネットに繋ぎ、クーラーをガンガンに効かせた部屋で名前も知らない人とのやり取りに夢中になっていた。
中学に入学してもクラスのメンバーはほとんどが持ち上がりだった。小学生の頃と代わり映えのしない日々を過ごしていた私にとって、誰かと話しができるなんていうのは信じられないことで、その中でも彼女は特別な人だった。
彼女と初めて話しをした日のことを今でも覚えている。
彼女は他のチャットルームの人達みたいに浮き足立った話し方はしない。丁寧で、明晰で、ユーモアがある。
彼女は誰にでも親切だった。分け隔てなく誰とでも仲良くしながら、そのくせ、決して誰にも近づき過ぎない。彼女はいつも猫のように気紛れに現れる。だから私は毎晩決まった時間にチャットルームに入室して、夜が更けるまで何時間だって彼女を待っていた。やっと現れた思ったら、ずっとロムってるなんてこともザラにあった。それでも良かった。私は彼女の存在に熱狂していた。彼女にはある種の絶対的な尊さがあって、少しでもそれに触れたかった。彼女とわずかでも言葉を交わせた日は、幸福な気持ちに包まれてベットに入った。

できるだけ目立ちたくないという私の願いに応えて、親切なクラスメイト達は、私がまるでそこに居ないかのように振る舞った。
私は教室の隅っこに、図書室に、そして保健室に身を潜めることになった。
何もかも全てが眩しくて仕方なかった。
思春期の子供達の体から発される独特の熱気がいつも教室に充満していた。女の子たちは教室の真ん中に集まって、生徒会の誰々と付き合い始めたのだと大きな声で打ち明け合い、花が咲き乱れたように笑い合う。お母さんにきちんとアイロンをかけてもらっているのであろう美しいスカートのプリーツを見つめながら、まるでスクリーンに映し出された映像を見ているようだと思った。

二学期が始まってしばらくしたある夜、彼女と偶然チャットルームで二人きりになった。いつもは気まぐれに出入りしている彼女がその日はずっと話しをしてくれて、別れ際にメールアドレスを教えてもらった。
その日から毎日一通づつ、メールが届くようになった。その日のうちに返信を書くと、次の日の夜にはまたメールが届く。
家でも学校でも透明人間のように振舞っていた私は、メールボックスを開く瞬間の、胸が高鳴るような昂揚感のために生きていると言っても良かった。
私は少しづつ彼女のことを知っていった。
彼女は私が住んでいる街から特急電車で六時間ほど離れた、雪の降る街に住んでいるそうだ。年齢は私より二歳年上の受験生で、年が明ければ隣町の進学校を受験する。野球部のマネージャーをしていて、生徒会にも入っている。
私が壊れかけの狂ったラジオだとすれば、彼女は超最新型の薄型テレビなのだ。機能的で美しく、そしてたくさんの人に必要とされている。
"今日は放課後にクラスメイトと季節外れの花火をしたんだよ"
"君はどんな女の子なのかしら。私の中ではロイヤルブルーのコートが似合う綺麗な子っていうイメージ。"
そんな他愛のない内容のメールを読むたびに、何かが喉元までこみ上げてきて私は泣き出しそうになった。
"あなたは今日はどんな一日を過ごしたの?"
私は架空の人物Aになりきって、彼女が13歳の一日を思い切り謳歌する様をメールの文面に起こす。彼女にとって私は私ではなく架空の人物Aなのだ。彼女に向かっている時間だけ、私は私から逃れることができる。
きっと彼女は、誰とも話しをしない日が続き、一人になってあーあーと声が出るか確認してみる、なんてことある訳ないのだろう。
彼女の光に満ち溢た毎日を想像してみる。
街灯に照らされて輝く真っ白な雪。美しくプリーツが整えられた紺色のスカート。折り目正しく笑う、品の良い彼女の笑顔。
遠く離れた街に住む名前も知らない彼女に向かって、恋慕によく似た強い感情が溢れ出すのがわかる。

私の人生を目撃しているのは私だけだという点において私はまぎれもなく孤独で、過去は死よりも遠いのだという事実に叫び出したくなることがたまにある。
冬休みになったら、私は彼女が暮らす街に行こうと思う。
彼女にはきっと連絡しない。
ただ彼女が暮らす街を見てみたいのだ。
タクシーに乗って彼女が通う学校に行き、彼女がいつも歩いている道を歩こう。彼女のお気に入りの映画館で映画を観て、彼女が買い物をするショッピングモールを散策しよう。
もしも彼女に会ってしまったとしても平気だ。だって私は彼女の顔も名前も知らないのだから。
電車は私を乗せてひたすら北へと向かうだろう。私は車窓を眺めながらため息をひとつつくだろう。
そうだ、その日のために私はロイヤルブルーのコートを買っておかなければならない。

"いつかあなたに会ってみたいわ"
受信フォルダを開いた画面の向こう側で、淡い文字列がチカチカと光っている。

#掌編



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