星のすみか

自分はとてもつまらないという感覚が長いことずっとあった。

クラスの中心にいるような明るい人や、流行り物に敏感なイケてる感じの人や、そういうわけでもないように見えるのになぜか人に好かれる人に、私はなれないのがつまらない。

来世でなら、なれるだろうな。

小学校高学年の頃の自分の感覚。
ブランドの服とか(そもそもブランドって何?)
モー◯。の誰が好きとか(顔覚えられないよ?)
おしゃれな小物とか(そんなに買ってもらえるの?)
周りの人がそういう話できるのが、不思議で仕方ない。

来世でなら、わかるだろうな。

小4〜6年の始めくらいまで、ずっと周りの女子たちとの差を感じて、孤立していた。
休み時間が苦痛だった。
風邪を引こうと夜はわざと水のシャワーを浴びてたこともある。

私は自分の感覚からでしか人と関わってなかった。
だから何の気無しに人当たりの悪いことをたくさんしていたんだと思う。
だから私物もよく隠された。
なぜなのかわからず、ただ被害者意識ばかりあった。

自分を正当化するためだけに、学校の「お勉強」はしっかりやっていた。
なんだかよくわからないけど将来とやらに困らないために。
そう大人は言うから、という理由で。
私にとって、流行り物に興じることは本当は不必要なことで、とりあえず学校で望ましいとされることをしっかりやることが必要なことだった。本当はそれが正しいことなのだと思っていた。
ただ、流行り物に付いていけてないことで孤立してると感じるのは苦痛だった。
だからモー◯。の顔を覚えようと頑張ったり、親に必死にせがんで香り付きのペンやらプロフィール帳やらを買ってもらったりしたこともあった。服も、親が着せたいものにはとことん反発して、イケてる系の子がよく着ていたブーツカットのジーンズを買ってもらったり…。
まあ、モー◯。を覚えられたり、おしゃれな小物や流行りっぽい服を買ってもらえたりしたからと言って、だから孤立から抜け出せたかというとそんなことは無かった。

本当はそんなくだらない理由で孤立してたわけじゃないのに。
流行り物にこだわらなくとも友だちと仲良く遊べている子が不思議だった。

来世でなら、こんなことで悩まないだろうな。

人と比べて僻んだまま歳を重ねていった。
中学生にもなるとえげつないスクールカースト感覚も出てきて、面倒になる。
私みたいなのはカースト上位にはなれないからと、とりあえず下位にはならないように、なんとか振舞う。
孤立はしないようにしていたので友だちの影響も受けるようになり、流行り物にも以前よりは進んで手が出る。
でも、同級生でも上位と思ってる人には決して関われない。
まず怖い。話しかけるなどとても恐ろしいと感じるくらい、別世界の人だった。

来世でなら、上位を目指せるだろうに。

中学時代は、カースト上位は無理なので、成績上位がアイデンティティ。
ほんとつまらねぇな。

高校で進学校に行けばそういうおっかない人たちもいないかなと思ったけど、そんなことはない。
それなりに勉強できる人たちでもやっぱり、おしゃれに興味があったりスカート短くしたりとなんやかんやイケてる人がたくさん。
しかも中学までは自分は成績上位でいられたけど、高校では自分より頭の良い人が普通にたくさんいた。
友だちがたくさんいて、ノリが良くて、それでいて勉強もしっかり出来て…そんな人が目について仕方がない。

ああ、どうしてなんだろうな。
自分に無いものを持ってる人がこんなにたくさん。
つまんないな。

でもとりあえず学校で認められてさえすれば将来困らないはず。
そう思い続けてきた私の、"人に問われて答えるためだけに用意した将来の夢"は教師。
理由は適当。
高校受験に向けての面談のときの担任の先生の言葉が心強かったのと、あと、ぶっちゃけ学校ならよく知ってると思ってたからなるのは簡単だと思ってた。
ほんと夢でもなんでもない。
でもそれを夢だと思い込もうとしてた。
将来困らない人になるためだけに。

とにかく教育系のそういう大学に入れれば、いろんな勉強をしっかりさせてもらえて、というより当たり前のようにさせられて、無事に教師として社会人になれる。

私は成績も悪くはない。平均とくらべれば、有利で、簡単な、はず…

そんな浅はかすぎる感覚で行った大学では、やっぱり自分に無いものを持っている人たちとの違いにこれでもかと打ちのめされた。
そこに居たのは、本気で教師になりたいという夢をしっかりと持つ人たちや、そうでなくとも自分の行先を自分の意思で舵取りしようともがく人たち。
誰も「勉強」なんて教えてくれず、それよりも自分の意志に問いかけてくる環境。
私はどこに行くんだろう…。ある授業で「教員志望の人は手を挙げて」と言われて挙げたものの、心がものすごく、そんなのウソだとざわざわ騒いだ。
誰も私を教師になんて「ならせて」くれないんだ。

何やってんだろう。
来世でなら、こうはならないのに。

とりあえず、この人生は、ずっとこんな感じなのかな。
ほんと、つまらないな…
来世はもっとマシなのかな…



前置き(!)が長すぎたけど、ここまで周囲の他人と比較することばかりに終始し、自分の意思を見つめることもせずまさに"他人が敷いたレールの上を歩くだけ"な人生に行き詰まりな感覚を抱いていた時に、「星のすみか」という曲に出逢った。

それまでにも藍坊主の音楽は私にたくさんの訴えを起こしていたのだけど、この瞬間が決定打だったと思う。
アニメ『TIGER&BUNNY』(タイバニ)のEDテーマにも起用されたキャッチーな曲調がもちろん格好良くてエモいのだけど、この歌詞がすごかった。特にここ。

僕が消え、遠い未来で、化石になったら、人は僕に何を見るだろう。
分析して、名を付けて、解読をしても、愛した人は僕しか知らない。

藍坊主/星のすみか

この2番の出だしの歌詞を理解したとき、脳内でそれまでに作られていた思考回路が一気に、ブチブチブチブチィッッッ!っと引きちぎられて新たな思考回路に繋ぎ替えられたようだった。

来世は、来世は…って
私はいったい、来世などに何の期待をしていたんだろう??
来世って、そこに自分はいるんだろうか???
今のこの自分などいるはずない。

一方で、この詞を書いたササキという人は、自分が死んで骨になってさらには化石になるほどに遠い遠い、気が遠くなるほどの未来に向かっても、僕の思想、感性、感覚、愛、すべてが他の誰のものでもない誰にも分析解読などされない僕のものと言い張っている。
自分を永遠に主張している。

何億年も先の未来の、他でもない自分のこと。
そんなの、想像したこともなかったわ……

自分の存在を、何億年のスケールで捉える。
それでも唯一無二の自分を主張できるのか。
何億年経っても自分はたったひとりの自分。
どうせ生きるなら、それを誇っていた方がいい。

来世ならもっとマシかなだなんて、馬鹿馬鹿しいことこの上ねぇな。
とんでもねえ思考グセが出来上がってたんだな。
危ねぇ危ねぇ。
20年生きてようやく気が付いた。

例え、死んだあと魂が新たな人生に宿って、いわゆる来世なるものが本当にあったとしても、こんなとてつもないことに気付かせてくれるこの音楽にこうやって出会えることはまず無いから、この音楽を生み出した彼らにリアルタイムで出会えているこの人生をそう簡単に諦めるわけにはいかないと思えている。
そんな大したことない自分のこの人生それでも捨てたもんじゃねえと思えるのはこのおかげ。

その衝撃から10年経った今でも正直、人生まだまだ模索中。教師目指してるフリなんてとうにやめたけど昔よりはマシになったかな、くらいだ。
でもこの曲に出会えなければ出会えなかった人たちがたくさんいる。そのうちの2人は夫と娘だ。

だからありがとうを言いたい。時間は儚い。
藍坊主が4人から3人になろうとしているこの今、いつか本当に終わってしまう時になんて言わずに、今ありったけの思いをここに記して、

そして次のありがとうまでの人生を歩きたい。


ちなみに、タイバニのEDでは2番が使われてましたね。
ほんと好きな歌詞だしアニメも面白いしで毎週土曜の深夜が楽しみで仕方なかった当時。おかげで立派な夜型人間にもなりました。笑
ありがとう!そして、ありがとう!(スカイハイさんの名台詞)