"ぼくの抱える穴が、意味のある存在だったら、どんなにいいだろう。"という歌詞を反芻しながら考えること

タイトル:藍坊主「ハローグッバイ」の歌詞より



今まで考えることはあっても、メモ程度ですらも文章にしたことのなかったことがある。

心室中隔欠損症(以下VSD)
という自分が生まれつき抱えているらしい心疾患のことだ。


↑専門的なことを説明するのは下手だし手間なので、国立循環器病研究センターさんのページを拝借。

ざっくり言うと、心臓を右と左に仕切っている真ん中の壁に穴が空いてるらしい。
医者の先生が聴診器をあてると雑音がすると言う。
その穴の場所や大きさ次第で経過や治療の必要性とかが人によって変わってくるらしい。
まあ先天性心疾患というものの中では割とあるあるなやつのようだ。早いうちに成長とともに自然閉鎖することも多いという。

私の場合、自然閉鎖はしなかったが、特に手術をする必要も無いということでそのまま今に至っている。

1ヵ月検診のときに見つかったらしく、それから成人するまでは毎年、成人してからは2年に1回の経過観察を続けている。


ここまで「らしい」とか「ようだ」とか、どこか他人事?みたいになってる。

何故か。
それは長いことこれは、自分というより母の心配事だったから。

以前、母方の祖母の心臓が弱かったということを書いた。

母は私がVSDになったのは、自分側の影響なのではないかと、そのことをずっと気にして心配していた。
(VSDの親から子への遺伝性は2〜4%程度、それほど高くはないし、そもそも母に心疾患は無いので関連があるとも無いとも言えないと私は思っている)



実際、私の生活には制限はない。

いや、VSD等心疾患の無い健康な人と全く同じかというとそうでもなくて、大怪我等で傷口から菌が入るとその穴に菌が付いて心内膜炎を起こす可能性があるから大怪我には特に気をつけてとか、そういうわけだから歯の治療で出血するような処置をする際は抗生物質飲んでねとか、まあ気をつけることはあるっちゃあるけど、どれも普段の生活のことではない。
強いて言うなら、いつだったか「ピアスはあんまりよくないね」と言われたような気がするので(記憶曖昧すぎ)、それはしてない。細かいアクセサリーには普段あまり興味がないので特に困っていない。
さらに強いて言うなら、風邪でも何でも病院受診するときにはいつも予診票にはいちおう書いてる。それが毎回、面倒くさいなー(病名長いし)って思ったり…
でもそれだけ。

学校の健康診断とかでVSDのことを話すと、「体育で走ったりとかプールとかは制限あるんですか?」と聞かれることが多かったけど、そんなこともない。普通に走ってたし(速くないけど)、プールだって普通に入ってた(泳ぐの得意じゃないけど)。


だから、自分のことでありながら、そんなに心配したり、気にしたりすることの無いまま育ってきた。


ぶっちゃけ、私は小6になるまで、自分の疾患というものを全く理解していなかった。いや、たぶんちゃんと知らされてはいなかったのかもしれない。はたまた、私が親の話を適当にしか聞いてなかったか。毎年夏に経過観察のために病院に連れて行かれるにもかかわらずである(理由も考えず、健康診断のようなものとしか思ってなかったのでは笑)。
「心臓に穴が空いてる」ということを理解したばかりの時はさすがに自分でも動揺したのか、とある同級生に何の脈絡も無く「実は…」とか言い出して、その同級生をとても心配させてしまった記憶がある。それからは、そんな大層な話にしちゃよくないなって思って、別に普通に生活できるんだし、あえて人に話す必要は無いわな、という感じで、あまり深く考えないようにして付き合ってきた。



そんな自分も大人になって、娘ができた。

出産は問題なく無事。
陣痛の間にVSDの主治医の指示で抗生物質の投与を行う(念のため)だけで、私も娘も元気で乗り切った。

母は、私がどんなに普通の生活でOKと言われていても、妊娠出産となった時に乗り切れるかどうかをずっと心配して生きてきた(もちろん妊娠出産も全く問題ないと言われていたが)。さらにはその子どもにまで影響が出ないかどうかを。


幸い、娘に心雑音は見つかっていない。


娘の1ヵ月検診のときに、「孫は大丈夫」とわかった母は、

「これでやっと私の荷がおりた」
と言っていた。


そこで、私は気が付いたと思う。

あれ?これ私のことじゃん?


今までは全部母の心配を借りてただけな気分だったけど、これからは自分でコレと付き合っていかなきゃじゃん。

別に自分は、これまでの母のように心配するというわけじゃないけど。

ただ、これは自分の中に存在している自分のものだったというわけで。


そう思ってからは、自分でもググってみる程度だが以前よりは突っ込んで調べてみたりするようにもなって、こんなnoteを書いてみたりもする。


穴の場所や大きさ次第でこの疾患の重症度は人によって変わるから、おそらく普段の生活が大きく制限されている人も、いらっしゃるのだと思う。私が知らないだけで。(健康診断の先生が言っていたように、走れない・プールに入れないという人もいらっしゃるのだろう)
だからそういう方は否が応でも、その穴の存在と向き合って生きてきた方だと思う。

私は、普段生活している分には、この穴の存在に向き合うことは少ない。

向き合ったところで、意味は無いだろう。

と今までは思っていたのだが…


この先もそのスタンスでよいのかもしれないし、

ひょっとしたらそういうわけにはいかないこともあるかもしれない。
事故って大怪我なんてしてしまったら特にだけど。


2年に1回の経過観察のたびに考えることは増えたけど、
「特に変わりないですね、ではまた2年後に」
って具合でこの先も続いて行くのかもしれない。

でも歳を取って身体が衰えてきたら、そうはならないかもしれない。


「かもしれない」
をよく考えるようになった。

なんでこの穴はあるんだろうなーとか考えたって、あるものはあるわけで、

意味はないと思うけれど。

普通に生活をする上では、それこそ藍坊主の「空を作りたくなかった」に出てくる無意味な造語、"エリゴザール"や"スピューラミー"みたいなものかもしれない。
制限という目に見える形は無く、私に影響を及ぼすほどの意味もない。

でも、自分のここには穴がある。
その穴の存在に意味があったらいい、なんて思わないし、思ってはいけないのかもしれないけど。

この穴とは、一生の付き合いになるだろうし、常にどこかでぼんやりと意識していくんだろうと思う。
私はその向き合い方を考えるきっかけが欲しかったらしい。


とりあえずここまでにします。
読んで下さりありがとうございました。