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【記録】9月の長井短「流浪の夫婦、長井短と都内某区賃貸物件ラプソディー」

「ここなら住めるかもしれない……」

本日3軒目となる内見。駅から徒歩10分、築年数浅めの物件、Zハイツ。

私は心底うんざりしていた。このうんざりは、今までの人生であまり味わった事のない質感で、とにかく心も身体もひどく疲弊していた。

もうどれだけ内見したのかわからない。軽く20軒は超えている気がする。私達を担当してくれている不動産仲介業者Y氏も、さすがに驚きを隠せない様子である。どれだけ懸命に探しても納得できる物件がみつからない。もう私達に似合う家など、この世に存在しないのかも知れない。そんな気分になる。

終わりの見えない部屋探し。
その始まりは7月上旬。出だしはとても調子が良く、内見を始めて3軒目で住みたい物件がみつかった。

最初に気に入った物件は、築年数がとてつもなく古く、4階でエレベーターもなく、駅からは15分くらい、崖の上に立ち、一階のテナントは廃墟化して窓ガラスは破れっぱなしであった。その荒廃した雰囲気は、ブレイク前のブランキージェットシティが忍び込んでバンド練習をするのにうってつけといった感じである。これらの要素を集めると、住むのを躊躇してしまいそうな物件であるが、この部屋にはこれらのマイナス要素を跳ね返す大きな魅力、サンルームがあった。道路に面したレトロなサンルームはとても日当たりがよく、眺めているだけで気分がよかった。長井はこのサンルームが大のお気に入りで、このサンルームでしたい事をとうとうと語り、私としても値段の割に広さもあり、古さもそこまで気にならなかったので、すぐに入居希望を出した。今思うと、賃貸物件流浪の旅はこの時点で既に始まっていたのだ。

私達はあっさりと審査に落ちた。
二人の年収を考えると家賃的にはなんの問題もないはずであるが、仕事柄を見られたのかもしれない。特に、というか主に私であろう。知名度がなく、事務所にも所属していない完全フリーランスの俳優である。こんな得体の知れない奴に住まれるのが怖い、家で夜な夜な過激なフラッシュモブとかされたら困るし、もっとちゃんとした仕事をした、社会的に信用のある人に部屋を貸したいという気持ちもわからなくもないが、一階テナントを廃墟にしといてそんな言い草もないだろうとも思う。ブランキージェットシティがバンド練習するのがありで、私が住めないなんて、どうしたって納得できない。

このような仕打ちにムカつきはしたが、サンルームの夢が膨らんでいた分、長井の方が悔しそうであった。確かにあのサンルームは特別だ。なかなか他でお見かけできない、どこかの古い植物園に忍び込んだような、そんな可愛らしさがあった。

悔しい気持ちを抱えつつ、そこから更に5軒くらいの内見を経て、次なるお気に入り物件にたどり着く。

前々から気になっていたテラスXという物件が、タイミング良く空き家になっていた。胸を躍らせつつ内見してみると、築年数の割に綺麗で小ざっぱりしていて、やたらと棚が多い部屋だった。中には、一体これは何を想定して作られたのだろうかと、理解に苦しむ棚も多く存在した。家全体から、設計者の並々ならぬ棚への執念が滲み出ていた。おかげで家具を置かなくても、備え付けの棚のみで全てをまかなうことができるので、荷物の多い私達にはありがたかった。更に1LDKという間取りの割にはドアの数が多く、小ぶりなドアが空間を心地よく区切っている。この小ぶりなドアを長井はとても気に入っていた。私も内見しているうちに「やっと会えたね」という辻仁成みたいな気持ちになり、口から出てしまうのを必死で押し殺した。運命の部屋に巡り合った頃、季節は夏の盛り、8月中旬になっていた。

ここまでがほんの序の口。
私達の引越しはここからが過酷であった。

無事に審査も通り、入居日を迎え、お気に入りの物件に荷物を運び込んでいた時のことである。私は若干の違和感を覚えた。どことなく、ふらふらする。暑さや引越し疲れのせいかなと思いつつ、段ボールだらけの部屋の床に座り一息ついた。座りついでに私はふとした気持ちで、手に持っていたガムテープを床に置いたのだ。その時の光景は今でも鮮明に覚えている。

コロ、コロ、コロ、コロ、コロコロ、コロコロコロ、コロコロコロコロコロ。

リビングの床に置いたはずのガムテープは、勢いよく寝室まで転がっていった。
ああああ。ああ。

運命の家は傾いていた。

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