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映画はリアリティの夢を見るか?〜映画『1917』をヒントに〜

最近の映画業界のトレンドは、間違いなく「没入感」だと思う。

最先端技術であるDolby Cinemaの概要にも、IMAXの紹介文にも、似たような言葉が羅列されているのを、印象的に感じたのを覚えている。4DXもこの系譜にあるだろう。

そして、映画館は「経験」を売る場所として、今後も「没入」を追い続けるのは、映画業界の未来予想として概ね一般的なことである。

そして、その「没入感」の究極体とされているのが『1917 命をかけた伝令』(以下・『1917』)だ。そこで、今回は映画の「没入感」ーーひいては「リアリティ」について、同作をヒントに見ていこうと思う。

1.『1917』と「リアリティ」の関係性


①『1917』と「没入感」

本作では、2人の主人公たちの行動に寄り添い、究極の没入感を表現するため、約2か月の撮影期間を経て【全編を通してワンカットに見える映像】を創り上げた。

『1917』のホームページに乗っていた公式文章である。これによると、「擬似ワンカット」こそが、「没入感」に繋がっているらしい。

しかし、これに私は違和感を感じてしまう。

「(擬似)ワンカット」が没入感を昂じる技巧であるなら、『カメラを止めるな!』や、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』なども「没入感」に高い評価を受けるものではないだろうか。

さらに言えば、『1917』と似た題材を扱っている『ダンケルク』は、ワンカットでないが没入感が高いとされている。

「擬似ワンカット 」が「没入感」に直接繋がっているのではなく、他の要因があるのではないか。

②映画における「没入感」と「リアリティ」の関係

まずは、映画における「没入感」と「リアリティ」の関係についてを整理しておこう。

普段の日常においては、この二つは必ずしも結びつくものではない。しかし、映画に限っては、密接な関係を構築しているのがわかる。

映画が「没入感」を追求する際に、一番意識しているのは「リアリティ」だろう。「よりリアルな音響設備で」「270度の映像体験で」「映像と合わせて動く座席で」というのは、映画を「現実に近い形で」没入させる施策である。つまり、観客にいかに「リアリティ」(現実に近い環境)を感じさせるかの勝負なのである。

2.これまでのワンカット技術と「リアリズム」

ここで、ワンカット作品と、「リアリティ」がどう繋がっていくのかについて、見ていこう。

最近よく騒がれてはいるが、ワンカットや長回しは何も目新しい技術ではない。そもそも、映画が作られた当初の映像は全て長回しで撮られたワンカット映像だったのだから、寧ろそれが本来の形である。

時を遡って、映画がまだシネマトグラフで撮られていた頃の話である。映画を発明したリュミエール兄弟による代表作を観てみよう。

列車の到着

工場の出口

かなりの短編映画ではあるが、どちらもワンカットで撮られていることがわかるだろう。というのも、そもそもこの時期にカットという技術が発達していなかったからである。

当時、これらの作品を観た観客は、「列車が本当に近づいてくるのではないか」と怯え、避ける人もいたそうだ。とにかく、この頃はまだ、リアリティを表す手段としての長回しではなかった。そもそも動画自体が現実の再現たるものだったので、「リアリティですよ〜!」と宣言するまでもなかったのだ。

この流れが変わるのは、映像をカットし、繋ぎ合わせる技術が出来てからのことだ。例えば、ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』などである。少し遅れて、D・W・グリフィスも登場する。

実際にはリュミエール兄弟の映画たちも、ガッチガチに計算されたフィクションではあるものの、この「編集」の登場で、映画は自ら「現実を映し出すもの」という意義を捨て、フィクション作品へと道を突き進むこととなる。

実際に、テーマとなる題材を観てみても、列車が到着する、工場から人が出てくるーーと言った「現実」から、『月世界旅行』のようにSFへと変わっているのがわかるだろう。(『月世界旅行』は世界初のSF映画でもある)

「現実」との決別を果たした映画たちは、それからも「現実」と不思議な付き合い方をしていくこととなるが、これはまた別なところで書きたい。

別れを告げる一方で、1940〜50年代あたりからは再び「現実を映し出すもの」としての映画が誕生することとなった。ドキュメンタリーや映像記録などである。そして、この流れの中で、長回しは一定の意義を持つこととなる。

カメラの前にある被写体と、我々観衆を「リアルタイムに」繋ぐ技法として。

ドキュメンタリーや映像記録は、基本的にはカメラの前にあるものを「そのまま」映し出すものだ。そして、この頃の映像は、基本的には「必ずカメラの前にあるもの」を記録したものだった。なんらかの編集が加えられるにしろ、基礎となるものはカメラの前に存在する必要があったのだ。そして、その風潮の中で、「長回し」は、「カメラの前にある現実をそのまま映し出していること」への証明という立ち位置を得ることとなっていく。

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しかし、実際には証明された現実はフィクションである。例えば、アルフレッド・ヒッチコックの『ロープ』は、実験的に長回しを使った作品だと知られている。この作品では、ワンシーン・ワンカットで映像が撮られている"ように"見せている。"ように"と書いたのは、実際には当時の映像記録能力ではせいぜい10分ほど記録することが限界で、カメラを人物で塞いだりすることで、カットをカットとバレないようにしているからだ。本当にワンカットなわけではない。まるで、『1917〜』と同じような手法である。

だが、この"擬似"ワンカットのおかげで、観客はフィルムの中の出来事を「目の前で繰り広げられている現実」だと錯覚するのだ。実際には、あまりにも計算され尽くしたフィクションであるにも関わらず、である。

「長回し」という、映画を現実たらしめる約束事によって、フィクションであることは隠匿されていくのである。

3.長回しは主観か?

そして、この「長回し」という技巧は、暫し論議の的となった。

ワンカットとリアリズムについて、最も有名な批評をしたのがアンドレ・バザンであろう。彼は、モンタージュを排したワンカットの映像こそが本当の映画である、という視点に立っており、ヌーベルバーグの成立に多大な影響を与えた人物である。

ヌーベルバーグでは、長回しでのリアリズム追求の他にも、映像と音声を同時に録音してみたり、即興演出を取り入れてみたり、現実の持つ「曖昧さ」を積極的に映像化しようとしていた。大半がロケで撮影されており、そこには監督の意図しない不確実性を多分に孕んでいたのだ。

アンドレ・バザンについて書いた柴田健志氏の論文が、リアリズムについて面白い評価をしていたので、引用する。

彼は、モンタージュを使用して出来た映画について、こう評価している。

日常生活においては、視線を固定したままでひとつの対象に注意を向け続けるということは、むしろ例外的な場合です。注意は様々な対象に次々に向けられているのが普通です。意識には連続した世界が見えているのではなく、断片的な世界が見えていて、それを想像や記憶あるいは推測でつないでいるわけです。

とした上で、

1930年代から始まったカットのつなぎ方は、いわば人間の心理学的なはたらきと同じことをやっているわけです。

と述べている。さらに、『十二人の怒れる男』を例に出し、モンタージュが人間の意識の流れに沿ってカット割りをしており、それにより観客はカメラを意識せずに映画を楽しむことができる、としている。

つまり、カット割りをしていても、映画はリアルな体験を観客に提示しているとしているのだ。逆に、ワンカットでは、日常で「意識」していない「客観的な現実」すらも見せてしまう。これは、まごうことなき「リアリズム」だろう。

しかし、それは「リアリティ」なのだろうか。一般的に、「リアリズム」と「リアリティ」は混同される傾向にあるが、それは別個な個体である。

リアリズム : 客観、相対性。科学的根拠やシステムなどに基づく、現実的写実。
リアリティ : 主観、絶対性。主観を持って、個人が没入できるもの。主体が感じる"現実"。

そこには、客観性と主体性という大きな違いがあるのだ。

4.『1917 命をかけた伝令』はリアリティなのか

ここまでをまとめてみると、『1917 命をかけた伝令』=ワンカット=リアリズム、という流れである。

本来であれば、この作品は客観的な視点を持った作品だったはずである。実際に、同じようにワンカットで撮られた2002年の映画『エルミタージュ幻想』のレビューには、「リアリティ」「リアルに感じる」というものはほとんどない。確かに、どこか客観的視点を感じさせる映画である。

しかし、一方で『1917 命をかけた伝令』のレビューでは、暫し「リアリティがある」という言葉が踊る。受け手である主観が本作の「ワンカット以外の部分に」"現実性"を感じているからである。

なぜだ?そこの答えにちかいものを、映画ライターのSYO氏が論述していた。

端的にいうと、本作のカメラには意思がある。(中略)『1917 命をかけた伝令』のカメラは登場人物を飛び越えて先に行く。ただ追うだけではなく、時に待ち構え、次に向かうべき方向を指示し、カメラ自体が1つのキャラクターとして成立しているのだ。この辺りの動きは、後述するがテレビゲームの感覚に非常に近いといえる。

つまり、『エルミタージュ幻想』と『1917 命をかけた伝令』の違いは、

・カメラ自体が一つのキャラクターのように動く(キャラクターを見守る一つの主観として存在する)

という一点にあるのだ。

これは、長回し(「リアリズム」)のその先にある、オプションとしての技巧だろう。これを聞いて、筆者が思い浮かべるものがある。そう、VRだ。

5.長回しの未来

長回しは「客観的事実の提示」でしかない。それだけでは、観客に"現実性"を感じさせる要素ではもはやない。

その事実を、『1917 命をかけた伝令』は教えてくれた。

より"リアリティ"を感じさせるために、180度映像が存在する「スクリーンX」なども誕生しているが、これもVR的発想だと言えるだろう。

このままこの方向に進んでいくのであれば、いずれ映画とVRやARとの境目がなくなるのも遠くないだろう。


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