三島由紀夫の人生設定②

三島くんの作品は、

レトリックが素晴らしいといわれているが、本当だと思った。

ウィキにこういう文が抜粋されていた。

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「東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、プールの飛込台の上で星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々におくれをとることになるのです。夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に映る星の光など見てくれません

きれいと、わたしは、思った。

プールの飛込台から眺める星☆そのような比喩を思いつくところが、

ロマンチスト・ナルシスティックともいえる。

この文章からうかがえることは

「文壇」界においての、三島の立ち位置、姿勢だと思われる。

三島は、咀嚼せずに、大急ぎで食べては捨てるような、

エンターテイメントの波が文壇を覆いかくすのではないかと危惧しており、

「心」=「道徳」=「人間性」を持ち続けることの、

大変さをいっているわけです。

ファストフードのように、

暇つぶし物語が業界で重視されることをよいと思ってないようです。


商業小説。売れる作品

読んでも読まなくてもどうでもいい作品

読まない決断の方がよい作品

「心」を伝える文章をもがきながら書いても

一般購買者たちは、その、ファストフードのような、

耳ざわりのよい、真理がない作品と、

魂をこめた自分の作品と区別がつかないようだ。

ということをいってるのです。


わたしは、公威くんにこういいます。

「いえいえ、それはですね。

文章を得意とするライトワーカーであり、

ライトワーカーなら、

公威くんがいってるエンターテイメント部門のみの商業作家もいます。

でも、アースエンジェルという役柄設定もありまして、

これは、ライトワーカーと種別が少々違います。


どこかにいるアースエンジェルに

公威くんの「心」を伝えるのが、公威くんの仕事なのです。


一般アリやサイコパスも種別で人間というカテゴリーにおりますが、

「幸運にも、わかればいいな!」ということで、

伝える対象としては、除外してもかまわないくらいです。


公威くんの見ようと思った、または、見た星。

それらを指でつないで、星座をつくった姿さえ、

わたしには、見えるような気がします。

同じ「心」の人アースエンジェルなら、

わかりますから安心してください^^

わからない人は、わかる必要がないということになります。」


もう一つ、

何度も、唇で味わう短歌がありました。

情景が目の前にあらわれるという、心象風景共有です。

これであってるか、わたしは、聞きたいけれど、

三島は、もうわたしの生存する時空間にいません。

時を越えて、アースエンジェル同士のすれ違い


蓮田という尊敬していた人が志を未完成のまま人生を終え、

その時の三島の歌がこれです。


「古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに

われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ

その身は漠々たる 塵土に埋れんとす」


靉靆(あいたい)は、知らなくて調べたら、

霧状または雲状なイメージです。


彼らしく「心」という軍服か袴をきたまま、

同朋の未完成の古代からつづく魂が

とつぜん、雲に隠されたように、自分の目の前から消えた。


自分だけ(三島だけ)が

「物質欲や名誉欲にとりつかれて、

心がいったい何だったのか忘れてしまった仲間」の中で、

便利さだけが残った文明の中で、失われていく伝統の中で、

自分に向かってくる、呼吸をしようにもさせてくれないような、雪煙。

その中で、雪野原でひざまづく公威くん。


(この歌は、去った仲間を思い、はかなく美しい)


このような情景が見える気がしました。

というか、くっきりクリアに浮かぶんですが、

これもサイキックな力なのでしょうか

いつもこういう感じです。


現代において、人間は、言葉を甘くみすぎている。

言葉には、

これほどの生命エネルギーが宿るということです。

「心」をどれほどの分量をもちつづけるか、

人生は、運動会の珠運び競技みたいなもの。

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