三島由紀夫の人生設定⑥

「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と村松剛に告白し、村松が、「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治と同じじゃないか」と指摘すると、三島は、「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言い、小市民的幸福を嫌っていたとされるが[108]、自分の死後も、子供たちに毎年クリスマスプレゼントが届く手配を百貨店にし[376]、子供雑誌の長期購読料も出版社に先払いし毎月届けるように頼んでいた[284]。伊藤勝彦によると、三島はある種の芸術家にみられるような、家庭を顧みないような人間ではなかったという[377]。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーウィキより

「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ。」

と三島が認めている。

ウィキの三島についての文章で、太宰が出てきてすぐ、

シンクロして「二人ともおんなじ設定うけてる」って気づいた。

三島の子どもたちは、毎年届く、高価なプレゼントや雑誌で、

三島の「今生の不在」に納得いったのだろうか。奥さんは?


「これじゃ、三島くん、

やってることは「御霊」が抜けた物質主義のやつらと同じじゃないか!

森田必勝のいうことをきくな!逆に、生きるよう説得!」

と、通り過ぎた時空間でわたしがパソコンの前で叫ぶ。


英雄なんかなるより、

自分さえよければよいという、仲間たちに

ねっとりした眼で犠牲役を与えられても、

そのような責任をはねのけて、

少なくとも、三島の子どもたちのため「生きて」

人生を全うする方がなんぼか意義があったと思う。


「英雄」も「犠牲」も、

人間界において、全く必要ないものだと私は感じる。


そのような男が大好きな「散るサクラのプライド」なんて、くだらない。

「男たちよ。もっと、プライドもてよ!」


さて、

川端康成と三島のやりとりで興味深いことがあったし、

今回とりあげるのは、人間の抗えない性的嗜好についての解放です。

三島から川端への最期の手紙である。

実は、この手紙の前に、自分が去ったあとの、

三島の子どもたちのことを案じ、

「(亡き自分のあと)こどもたちを守ってくれるのは、川端さんだけだ。」という旨の書簡も存在するという。

「三島が川端康成に宛てた手紙の最後のものは、11月4日から6日の間に自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地から出された鉛筆書きのもので、この手紙は川端康成によって焼却されたとされる[402]。香男里によると、「文章に乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にならないからすぐに焼却してしまった」とされる[402]。しかし、これは川端の名誉にならないから焼却されたのではないかという見方もある[325][403][注釈 30]。」

わたしの直感でいいですか?

好奇心よりも、マイノリティーを解放して、

三島に自由になってほしいというねがいいをこめて♡

三島は「バイセクシャル」だったのではないか?

という印象を4行の文章からひらめきました。

三島から川端への最期のラブレター♡だったのかもしれません。

文章に乱れがある → 川端が信じたくない内容


本人の名誉を守るため、焼却 → 三島は、以前から川端に尊敬する先生をこえて、「同性愛(性愛含む)」を感じていた。


この世を去る思い残しにならないように、

三島は、川端に思いのたけを告白したのです。

三島は、バイセクシャルかどうか実際のところ、

ウィキを見る限りは、わかりません。

わたしが、そう感じたにすぎません。


名誉というけれど、三島の、男は男らしくという時代と違って、

近頃は、ずいぶん市民権を得るようになった様々な中性的存在。


「男が男を愛していいじゃないですか?

人間が人間を愛するだけでしょ?

なにが、そんなに差別したり、

秘密を守らないといけないのですか?

ただし、コンドームは衛生的につけましょう!」


わたしの中からは、こういうシンプルな意見しかでてきません。

その人らしかったら、相性がよい人間はみつかるのでは?


三島が一番愛していた川端を結果的に、

三島のエゴの末路によって、

川端をさらなる悲しい結果へといざなったようです。


「アースエンジェルは、自分だけの役割ではありません。

生きるのをあきらめれば、その連鎖はアースエンジェル界を駆け巡ります。

それだけでなく、一般アリ界も同様にマイナスのエネルギーが広がります。

勝手に天空に帰るということは、

決してやってはいけない行為の一つなのです。

英雄と犠牲は、本当に、いらないものなのです。

残された仲間への「刃」です。


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