マカピーな日々 #0044 黄金コンビ
マカピーです。
朝食はご飯にお味噌汁そして納豆というのもありますが、トーストにコーヒーも悪くないです。最近は幾年もこのパターンですね。
子供のころマカピーの家の周辺でパンを購入することができませんでした。
ところが県都にいる叔母の所へ行くとトーストをおやつにくれるのでした。そして熱々のトーストにはバターとイチゴジャムをつけてくれるのが定番で、何時しかそれはマカピーの定番となったのでした。
「三つ子の魂百まで」なんて言葉もありますが、幼いころに食べた味はなかなか忘れられないですね。
それでもヨルダンに行ってきた後はオリーブオイルにバルサミコ酢を付けるようになりました。
もちろんイチゴジャムだけでなくアップル、マーマレードやラズベリーのジャムも好きです。
以前、矢野顕子の歌を聴いていたら子どもの詩に曲を付けたものがありました。その中に「お父さんは、米屋なのに、朝パンを食べる」というのがあり大笑いした覚えがあります。
好きなものを食べる、食べられる幸せってあると思います。
最近ザクロの花が咲いていますが、ザクロというのはもスリムでもクリスチャンでも豊穣のあかしとして喜ばれる果物です。
イエメンでも大きなザクロが市場にあり買ってきてはジューサーにかけて果汁を飲んでいました。
ところがある映画で突然連行されてしまう女性が懐に一つのザクロを忍ばせていて一粒ずつ食べながら生きながらえる話を知った時にあの実の赤さが、血の通う肉に見えたのでした。
マカピーの子どもの頃の食事というのはシンプルでしたね。
農家だったから仕方ないのかもしれませんが、野菜をとったり減塩の食事改善が行われるのはずいぶん経ってからだと思います。
それでも母は忙しい農作業の合間に料理をしてくれました。いかんせんパンや乳製品が周囲になかったのでそうした西洋的なものが我が家に入り込むのにも時間がかかったようです。
我が家では戦前生まれの祖父は幾たびかの兵役を生きながらえ、最後はビルマ(ミャンマー)から引き揚げてきたのですが、彼のほうが垢ぬけている感じがすることがありました。
例えばコーヒーですが彼は外地で毎日飲んでいたので、孫の我々がネスカフェの粉コーヒーを飲んでいると「俺にも一杯たのむ」と言ってきたりして、コーヒーに手を付けない父母とは違う雰囲気でした。
祖父はマカピーが一年休学して米国に行きたいといっても「OK」、青年海外協力隊(JOCV)に行きたいといって家族を驚かせた時も「OK」と支援してくれました。
マレーシアから帰ってくると、マカピーは暑い夏は現地で使っていたサロン(腰巻)姿でいると「そいつは、ビルマではロンジーっていうんだ」と我が家では、ともかく一番の物知りの人物だったのでした。
祖父は時々台所で、一人でてんぷらを揚げたりして意外と面白い一面も持っていました。
彼は若いころから反骨精神が強く、一方で時代の流れを読むのが得意だったようです。
30歳を過ぎてから召集された3度目で最後の戦役の前には「日本の負け戦」を確信していたそうです。
それでも出征後、残された女手だけの家族にこっそりと硫安(窒素肥料)を統制が始まる前に買い入れておいて、少しづつ使うように言い残していったそうです。
祖父は生還してからは村議や農協のリーダーとして村の発展のために尽くしたのですが、少し未来志向だったので他の村人がついてゆくことができなかったのかもしれません。
マカピーは想像するんです。
兵役を終えて帰還した人たちは、日本の戦後復興をするのだと胸を弾ませていても現実的には「煙たい存在」となっていた可能性が高いです。
祖父だけでなく当時はそうした人材が多かったのではないでしょうかね。時代が時代であれば彼の人生も随分違ったものだったはずです。
そしてマカピーは祖父ともっともっといろいろな事を話したかったなあ。
それに一緒に朝食にコーヒーにトーストという場面もあったのかもしれない。
その時は彼のトーストにバターとイチゴジャムを付けてあげたかったなあ。「おじいちゃん、これって最高の組み合わせで旨いんだよ」って。
マカピーでした。
もしもサポートいただければとても嬉しいです。そのサポートは感謝のバトンタッチとして使わせていただきます!