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思えば遠くへきたもんだ?マカピーな日々#0487

マカピーです。

かつてソ連を中心とする「東側」世界英米を中心とする「西側」世界がありました。マカピーが5年間滞在したウズベキスタンはそのソ連邦を構成する共和国だったのです。1991年のソ連崩壊で仕方なく?独立して10年ほど経っていました。

帝政ロシア時代を含めれば70年間、クレムリン(モスクワ)が支配していたので政治中心は直轄だったこともあり、タシケント中央政府では地元ウズベク語がありながらロシア語での仕事が普通でした。

マカピーがタシケントで知りあった同年代の女性は「学校のクラスの人種は10か国以上ありロシア語が共通語だったのよね」と言ってました。

そうなんです、ウズベキスタンの人のパスポートを見せてもらい日本のものとは違うので目を引いた項目がありました。

それは、「人種」です。

血液型そして人種の項目に「ウズベク人」「ロシア人」「タジク人」「キルギス人」「アフガン人」「イラン人」「ドイツ人」「カザフ人」「トルコ人」「トルクメン人」「タタール人」「中国人」「朝鮮人」などと明記されているのです。

それはソ連の指導者スターリンが各地の人種を混合させた新しい都市づくりをしたなごりだったと言われます。

その中でも朝鮮系住民は人口の10%と割合が多く当然レストランもありました。実は、彼らは第2次世界大戦で朝鮮半島の付け根からウラジオストク方面まで広がるソ連の沿海州からの強制移住させられた子孫でした。


その理由は朝鮮人は日本人に似ているから、いずれ日本の協力者となる恐れがあるから移住させてしまったというのでした。

戦時中のこととはいえなんとも「ムチャクチャな話」なんです。

結局、ソ連領土の朝鮮民族は貨物列車につめ込まれ、中央アジアに連れてこられそこで暮らす事を強いられたのですが、マイナス20度以下になる極寒の「冬」を越すと何の準備も出来なかった彼らの人口が激減していたそうです。

ロシア語で中国人を「キタイスキー」朝鮮系住民「コレイツィー」と呼ばれ、街角などでマカピーも「どっちだ?」と聞かれると「ヤポンスキー」(日本人)というと期待以外の回答に珍しがられました。

マカピーの職場でも二人が朝鮮系でヴァジムとナターシャで、苗字はそれぞれPakと表記していたので、もともともは「朴」だったのかも知れません。

ナターシャの父親アレックスと昔の話したら、朝鮮族系が殆ど朝鮮語を解さずロシア語中心の生活をしていたのは、もともとロシア語圏で暮らしていたのと彼らの生き残り対策だったと知らされました。

ムスリムのウズベクの土地でハンデがある少数民族として生き残るには共通語となるロシア語で優位に立てるし、ロシア語が出来ればモスクワや他の共和国で出稼ぎ労働者の道も開けるからだとも。

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マカピーの次男がインターナショナルスクールでの第二外国語選択で「ロシア語」を選んで後悔したのは、ロシア語はフランス語より難しい!と分かったからでした。

次男は長男と三男のように読書をするのが苦手、スポーツしか興味がなく「将来は各国で働けるすし職人」になると思っていたのですが、11年生(高校2年生)の後半になると、どういう風の吹き回しか突然大学進学を意識するようになりました。

それで、選択したロシア語の単位を捨てる訳に行かないので、ある日マカピーに「チューター(家庭教師)を雇って欲しい」と言ってきたのでした。(他にも数学がありました)

マカピーはナターシャに相談して、彼女の親戚で一番ロシア語の成績がいいという大学生に来てもらいました。それは朝鮮系の女性で、次男によれば学校でロシア語を教えるタチアナさんよりも理解が進んだと言っていました。

その甲斐あってか?次男はカナダの大学へ行くことが出来ました。


タシケント市内のバザール(市場)に行くと、必ず朝鮮系のサラダである「キムチ」や「ナムル」を山のようにうずたかくして売っているコーナーがあり毎週土曜日に買い物担当のマカピーはそこでお世話になりました。

マカピーの好物は酢の効いたヒラタケ(キノコ)、大豆モヤシ、ニンジンそして昆布でしたが、中国産なのでしょうかこんなところにも細く裁断された塩蔵昆布が原料として輸入されているのでした。

もちろん売り手は朝鮮系のおばちゃんです。

マカピーもびっくりする色彩感覚の毛糸のカーディガンにウズベク女性風?金歯がギラリ。そして刺青のアイシャドーでバッチリ決めているのおばちゃんたちを眺めながら彼らのここへたどり着くまでの数奇な旅を考えるのでした。

マカピーでした。

最後までお読みいただき感謝します。世界中に運命に翻弄された民族がいます

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