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今だから分かる事(#0327改定)マカピーの日々 #1338

マカピーです。

マカピーは農業学校三年生の時に米国での1年間の農業実習に行く機会を得ました。

その応募には休学する費用負担と選考試験がありました。

休学する間の学費はともかく、学内の選考試験というのは簡単な英語もありましたがメインは「バーベルを持ち上げる事」でした。

歴史ある派米実習試験では、かつて米の入った俵(たわら)を「よいしょ」と持ち上げられれば合格だったという、伝統あるものだったとか? 

あとは志望動機を尋ねる面接というシンプルなものだったように覚えています。

もっともマカピーの学校は、拓殖学科(現在の学科名とは異なります)という海外の国へ移住しての農業生産を目指す学生を育てていたのですからさもありなんです。

面接の試験官も拓殖学科の先生方でしたが、

「最近はうちの学科の学生だけじゃ数が集まらないので、他の学科からかき集めて実習プログラムをやっているんだから、嫌になっちゃう」と愚痴をこぼしていました。

日本の農業就業人口は激減していて、そもそも農家の子弟がこの学校に入る事は少なくなっている現状だと聞きます。

そもそもマカピーの母校は、戦前から南米への移住やカナダへの入植に卒業生が挑戦した事でも有名です。

もちろんあの満州へも「満蒙開拓団」として。

そうした学生気質も時代とともに変化していったのでしょうね。

さて、当時のマカピーの正直な気持ちは「このまま学校を卒業して、皆と同じように会社に就職するのでいいのか?」という漠然とした疑問や不安がありました。

それは、社会に出たくないから大学院に残る学生とどこか似たものがあったのかも知れません。

とりあえず、「米国へ1年間実習へ行けば何か分かるだろう」的な、かなりいい加減な動機だったのです。

つまり、全然カッコよくない、挑戦なのか逃避なのか判然としない米国行きだったわけです。

「ところで、米国っていってもどこに行けばいいんだ?」と分かりません。

ちょうど兄の親しくしていた先輩が派米実習を経験しアイオワが良かったという、その一言でマカピーは「アイオワ州」に決めたんです。

「ところで、アイオワってどこにあるんだい?」と合衆国の地図で探したのです。

ね、かなりアバウトでしょう?

正直なところ、まじめに経験者を訪ね歩くとかしなかったので情報がなかったんです。

他の参加学生の多くは西海岸の大規模農業での実習に狙いを定めているようでした。

西海岸はカリフォルニアやアリゾナなど野菜生産が中心となりますが、アイオワ周辺の中西部(Mid West)といわれる地域は酪農や肥育牛、養豚といった畜産実習が中心となります。

で、マカピーは農学科で畜産専攻はしていませんでしたが酪農を希望したんです。

秘かにマカピーが酪農で米国で期待したのはこういう事でした。

つまり西海岸は普通の海外旅行などの機会にも行けそうだけど、中西部にはこんな機会がなければ行けそうもなさそうだ。

人種のるつぼと言われている大都市近郊よりも、田舎で白人の人口割合が高そうな地域がアイオワでした。

つまり、入植者がそのまま暮らす土地。上手くすれば、アメリカらしいアメリカが残っているのではないかな?という期待もあったんです。

そう、マカピーの「アメリカ」を探しに行ったんです!

準備をしていないといいましたが、マカピーはそれとなく畜産経験を積んでいました。

マカピー自身が農家出身だから小規模の養豚、養鶏などの経験はありました。

更に派米実習を目標にしていた訳でななかったのですが、応募した前年の夏には北海道の中標津へ行き酪農バイトをして搾乳作業以外にもトラクターを使っての飼料用作物栽培なども経験していたんです。

それで米国実習プログラムに応募したのでしたが、中西部の畜産実習に参加したのはマカピー以外に全員畜産学科以外の学生でした。

あっという間?に1年の米国研修を終えて、無事に帰国すると休学で4年生をやって卒業し、一年先延ばしにしていた就職も考えなくてはいけませんでした。

そもそも3年生になる時に教員になるための教職科目も受けていなかったし、農業をやりたいという漠然とした希望があるだけで、体は動きませんでした。

マカピーが復学すると同期だったクラスメートは既に卒業していました。

学校に行っても話が合うのはどうしても一緒に米国実習を経験した連中となりました。

どうやら、このころから社会一般の流れと違う考え方が生まれてきたように思います。

馴染みのないクラスメートたちが熱心に就活に励む中、マカピーは会社面接もしませんでした。

復学してからかつて卒論準備のために「奴隷」のような下働きをしていた研究室に挨拶に行きました。

でも、一年前と違って顕微鏡をのぞく作業には興味が薄れていたのです。

「マカピー、卒論をどうするんだ?いまからでも間に合う研究テーマをやるぞ」

と親切心から声をかけてくれたS講師の申し出を断ってしまったのです。

「結構です。卒論は自分でテーマを決めて書きますから」


ところで米国アイオワ州にいた時に思ったのは「自分は日本の事を全く知らない」事が無性に恥ずかしく、それを何とかしたかったのです。

それじゃあ、夏休みに尊敬する冒険家である植村直己さんが記録を持っている日本縦断徒歩旅行を自分もやろうかと思いました。

しかしその記録を見るとランニングウエアと貯金通帳しか持たないで走り抜ける徹底した、人間離れした挑戦はとても真似できるものではありませんでした。

しかもチンタラ歩いていたら夏休みなんてあっという間に終わってしまうので、自分に合った旅をすることにしました。

そこでマカピーは弟の自転車(ロードマン)をツーリングタイプに改造し鍋釜テントをくくりつけて、夏休みに四国を自転車で一周し「プチ日本探訪」をやってみたのです。

なるほど、四国っていいとこだなあ!(笑)

一方、卒業単位はほぼ足りていたのですが、やはり卒論を書かない事にはに卒業できない学校なので、アイオワで見てきた「米国の土壌流亡と不耕起農業」をテーマに着手したのでした。

そのころ、実習で米国へ行き知り合いとなった方から「アルバイトを探しているんだけどやる?」と誘われたんです。

マカピーは時々卒論関係で指導教員に相談しに学校へ行く程度だったので、神奈川県の山間部にあった畜産会社の農場事務所の2階に住み込みすることにしました。

そこでバイトしながら卒論を書きあげたのですが、なんだかどうでもよくなって卒業式にさえも行きませんでした。

畜産会社には勉強熱心な若い先輩職員がいたこともあり、マカピーはそのまま社員となってしまいましたが、一年もすると今度は青年海外協力隊(JOCV)に応募するのでした。

続きは数日前の#0325の記事になります。

マカピーでした。

最後までお読みいただき感謝します。あそこに今の自分の原点があったのかも?

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