当事者意識と、選挙。
いよいよ参院選・投票日ですね。
選挙権が18歳に引き下げられたことで、興味深く選挙戦を見ています。
僕は、大学時代、活字の本を一冊も読まず、国や政治に中指を立て続けてきたようなナメた人生を送っていたような人間ですが、30歳のころ(約10年前)、友人が居てもてもいられないから立つ(選挙に出る)というので、ただただ「見捨てられない」という一心で、長年に渡り、応援・ビラ作り・ビラ撒き・ポスター貼り・電話・応援演説、と選挙に関わるほぼ全てことは一通り経験させて頂きました。もちろん、落選も浪人も当選も、そして地方も国政も。大切な友人がどうなったのか、全てではないけれど、端で見てきました。
電話やポスター貼りは基本は「ウザがれる」ので、かなりハートが強くなります。僕は誰よりも「ウザがる」側の人間だったのでむしろ相手の気持ちがよく分かります。駅前のビラ配りもなかなか味わい深いものがあって、「あちょー」と言って、目の前でチョップでビラを破かれた時は、真剣に殺意が芽生えましたが、大学生のときには、自分がそれに近いことをやっていたなと思うと何も言えません。鮮やかなる因果応報です。
選挙活動を手伝っていて思ったのは、なんでこんなに頭を下げないといけないのか、ということ。土下座並みのへりくだりをしないと、ビラも受け取ってもらえないことが多い。「ちっ、邪魔だよ」と虫ケラのように扱われる。なんでだろう。みんな、自分たちの町のことなのに。
この時分かったことは、本当に悪いのは政治家ではなかった、ということ。自分だった。自分の無責任・無関心が何人にも連鎖してこの空気を作っている原因だと分かった。「渋滞をつくっているのは自分自身」だったと気付いた。
でも、もし当時大学生の僕が、選挙権を持っていたらと思うとぞっとします。「世の中むかつくぜー」的な候補に投票したに違いありません。
その後の僕は、これまたご縁から、衆院選で、ある野党の広報戦略コンサルタントを務めることになりました。畑は違えど培ってきたマーケティング&PRのスキルを買われ、いい加減なことばかりやっている大手PR会社や大手広告代理店相手にコンペで勝ち抜き、党のスポークスパーソンである幹事長のスピーチライティング・広報戦略を仕切りました。
これがまたすごい経験でした。選挙戦は信じられないようなスピード感のなかで進みます。戦局が毎日変わるので、戦い方も毎日変えていきます。よって、候補者の予定もめまぐるしく変化します。瞬間瞬間で判断を重ねていかねばならず、まさにエレベーターピッチの毎日。永田町で毎日の記者会見を終えて、マスコミの論調を分析したレポートを党内に展開し、それを移動中のエレベーターの中で、幹事長に対して20秒で報告&今後の提案。これを2週間ほど毎日繰り返します。もちろんプライベートはほぼゼロです。
そんな中で、政治家の良いところ悪いところも一通り見ることができましたが、僕が政治家を見る・選ぶ上で、一番心がけていることは「当事者意識」です。
・自分が、もし候補者として演説している立場だったら、
・自分が、もし国会に立って発言する立場だったら、
・自分が、もし官房長官として国の重大な会見をせねばならない立場だったら、
・自分が、もし総理大臣で、重大な決断をせねばならない立場だったら、
何を話し、どんな行動をとることができるだろうか。
とにかく自分が当事者として、どれだけ「向こう側」の人になりきるか。向こう側の人をどれだけ「想像できるか」かどうかが大事だと思います。
いま自分は向こう側にいないから圧倒的な「安全地帯」にいるのだけれど、思考だけでもそこから抜け出して、考えてみる。
その観点で、政治家を見ていると、少しリアリティが出てきて、この人は本当にやる人か、そうでないか、大事な時に逃げるか逃げないか、を判断する材料になってくると思います。
政治家とは社会のリーダーです。衆議院議員だろうが参議院議員であろうが、代議士・国会議員という名前はダテではなくて、辞書で調べても「国民から公選され、国民を代表して国政を議する人」と書いてある。中にはふざけた議員もいますが、本来は、みな「リーダー」でなくてはならないハズです。
リーダーたる人間は、責任をもった発言と行動をするのが当たり前。国民の代表なので当たり前です。
一方で、リーダーがやることを、ただただ批判をする議員もたくさんいます。はっきり言って、批判は誰にでもできる。問題なのは、こういう人たちは、責任を持って発言&行動をするという議員の義務を果たしていない、思うのです。
あいつが悪い、あいつがおかしい、国が悪い・・・リーダーを批判して、耳触りの良い言葉をささやくのは本当に簡単です。だって、責任がないんだから。
一方で、批評・批判がない社会はすごく気持ち悪いので、それは必ずあってしかるべしと思います。しかし、代案なき批判は、単なる評論家。自分を安全地帯においた状態で批判をしたい人は、議員ではなくて、テレビのコメンテーターとか2ちゃんとかをやっていればいい。
代案なき批判を繰り返し、国民をその気にさせ、政権を奪うことに成功した政党がかつてありましたが、「いざ当事者になってみたら、何もできなかった」のをみんなが覚えています。しかも日本未曾有の自然災害・危機の時に。
ルックス・耳触りの良い言葉・有名人・ノリ。
争点なんて山ほどあるのに、それを単純化して、○か✖️かを問う。人間は複雑なものが苦手だから、単純化されると気持ちがいい。そこで思考を停止できるから。あとは○か✖️かを選ぶだけで済む。
でもそれって、どう考えてもおかしい。経済・宗教・テクノロジー・金融・人口問題など社会問題はどんどん複雑化していて、解決の手段はひとつじゃない。景気が悪くなって、世の中に閉塞感が漂ってくると、英雄を待ち望むようになる。ヒーローが天から現れてすべてを解決してくれると勘違いをする。英雄待望論、救世主待望論と検索しただけで書籍や文献もいっぱい出てきて、歴史は本当に繰り返しているのだと分かる。
耳触りの良い言葉を言うのは簡単です。大事なのは、本当にリアルの世界で現実的に「行動」ができるのかどうか。
そして、
「一票をたくす」
と言うけれど、リーダーにただ投票するだけで世界は変わらない。
たくして、預けて、すべておまかせ?
自分は、自分が住む国・住む町を構成する一員、一要素なのだから。そんな都合の良い話ってあるわけがない。
自分も一員として、船の漕ぎ手となるのか、もしくは、汗水垂らして船を漕ぐ人を「おせーよ」とか言って酒飲みながらヤジる人になるのか、自分は一体、どっちか。
数年に一度の選挙で騒ぐだけ騒いで、また数年は忘れて放置プレイ。これが一番イカンです。週刊誌と一緒。
繰り返しになるけれど、耳触りの良い言葉を言うのは簡単。本当にリアルの世界で現実的に行動ができるのかどうか。リアリティを持って語っている人は、現実をきちんと直視している人だと思うから、言葉が軽くないハズです。 僕らは、リーダーに夢を見せて欲しいよ、そりゃ。でも、そう簡単じゃないから、突拍子もないことや、無責任なことって本来は言えないハズ。
「相手が」「国が」とかじゃなくて、主語はいかなる時も「自分」であるべき、です。
ネットやメディアに情報がたくさん溢れて、誘惑はたくさんあるかもしれないけれど、そういう視点で僕は、候補者を選ぶことにしています。
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