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銀ちゃんといっしょ 46

沖縄海洋博

〝小四から3年間沖縄にいました〟
〝沖縄海洋博の時ですよ〟
この台詞が通じなくなってから何年になるでしょう

父親の転勤で沖縄で3年間暮らしました
その時の話題になると〝海洋博の……〟で
〝あ~あの時!〟って言われてたのが
ある時から
聞いた相手の目が点になり始めました

時は流れているんですね

まだ車が右側通行でした

こう書いたら
〝なんで?〟という若者もいるでしょうか?

〝本土〟から来た私たちは
〝内地の人〟とも呼ばれていました
あちこちアメリカっぽくて
お父さんがアメリカ人っていう同級生もいました

だいたいの事がのんびりとしていました

あの暑さではしょうがない感じです

1分でも遅刻になりそうな時に
走って学校へ向かっているのは
引っ越してきた私たちだけ
先生はそんな私たちを
よく引き合いに出していました
ああやって時間を守らないといけない…と

断水が多く
その時の給食は牛乳とパンとハムだけ
先生が同級生を通して
〝断水だからこれだけなんですよ〟
という事を伝えて来ました

当時の先生方は
急激に流れ込んで来た〝本土〟の私たちと
地元の子どもたちとの関係が
どうやったらうまくおさまるか
苦慮していたようです

小学四年生の私自身は東京から沖縄へ行き
正直どこでどんな所で…なんて知る訳もなく
ただ飛行機で凄い距離を移動した異国の地でした

ちょっとした事でも
〝こんなやり方したらバカにされるかな…〟とか
毎日なにかしら心配していました

一番はっきり覚えているのは
音楽の時間に音符を書く時
丸を先に書くのか棒を先に書くのか悩み
見られて突っ込まれたら嫌だから
ひたすら隠して書いていた事

朝の持ち物検査の時に
〝チリシ〟というものが何かわからなくて
毎日忘れた物としてチェックされていた事
〝ちり紙〟と文字で書けば一目瞭然ですが
アクセントの違う〝チリシ〟は
何の事だかサッパリわかりませんでした

もちろん子どもです
そんな状況はすぐに解消されて
当たり前の子ども時代の思い出となりましたが
今思えば考えられない事はたくさんありました

お酒のにおいをプンプンさせて二日酔いで
やって来る先生

授業をやめて海岸まで行き
遊んで帰ったり
釣りをしたり

授業中に政治的な事を口走り
批判をしたり揶揄したりする先生

テレビに出たいがために
あからさまな贔屓をしてくる先生

今なら保護者からクレームが来て
大問題になるような事が多々ありました
沖縄だから…という事と
時代的な事とがあったと思います

一番今でも凄いと思う事は
沖縄海洋博に行けない子どもを集めて
先生が連れて行った事

会場は那覇市内からわりと遠方だったし
裕福ではない家庭では行けなかったんだと思います

子どもの時の記憶なので
違っている事もあると思いますが
海洋博も終わりに近づいた頃に
まだ海洋博に行っていない子どもを募り…
……10数人いたと思います
先生がその子どもたち全員を連れて行き
全てのパビリオンをまわったと…
お金の事などは知るよしもありませんが
家族で行った私たちは逆に羨ましがったものです

東京の元同級生数名と文通をしていました
東京から遠く離れた所へ行った私の手紙が
物珍しく続いていたんだと思います

でも
五年生 六年生となる頃には
父親の転勤で
ドイツへ行った
アメリカへ行った
等々
多くの元同級生たちが海外へと行ってしまいました
そういう時代だったんでしょうか
多くの企業が海外へと進出していたんですね

それに比べれば異国情緒はたっぷりだったけど
同じ国内の沖縄
のんびりとした子ども時代の思い出となって
私の心にずっと滲みています

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