傷と脅威のエネルギー構造
昼に占う合間につらつらと考えてたことメモ
たぶん世のエネルギー構造というか
「傷」「脅威」の構造を
人はいまいち主観より上の視点で
わかってないんだと思う
傷ついてる人って傷ついてるから
他者を知らずにそのエネルギーで傷つけるんですよ
これは因果論で語れるものでもない気がしてる
意識していなくても「自分が傷つく」という
エネルギー下にいる限り
同時にエネルギーとして放ってしまう
だから傷つけてる人に限って…って話が
出るんだと思うけど……たぶんどっちも本当
傷ついてる状態は知らずに傷つけてしまうの
怖がってる状態は人の脅威になってしまうの
自分の傷みに以上に相手の傷みを理解し受容した時に
その傷は癒され初めて傷ではなくなる
それがわかるまで傷と向き合う羽目になるのが
たぶん私たち傷と向き合うお仕事
一番傷みをわかってないから向き合ってるのかも
生きにくさを訴え占いにハマるその時点で
主観にホールドされてる状態
人に主張して傷を語れば相手を傷つけるからと自己内部にひた隠しても、その悲しみは漏れて人を傷つける。脅威は悲しみ。だからといって傷つかないことは無理。けれど傷に他者をためらいなく引き摺り込むよりは、まだきっとそれでもいいのだと思う。
不意にもれたその悲しみや傷みに、他者はどこまで狭量になれるか。寛容であれるか。そういうことなんだろうなと思う。
誰かに傷の責任を追い求め続ければ、結果としてその人に傷みがたまり、周りもその声を聞くたび責めた自分の汚さを映し問われる恐怖で、傷つく。それだけ。
人はみな一個漏れなくキロン。さてこの傷みへの収拾つけられるエネルギーの通り方ってあるのかな、という自分的研究課題。
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