2022年/マイカレンダー秋号(部分的な感想)

マイカレを今季も手に取らせていただいています。
今回、パッと開いて目に飛び込んだのが、こちらの古田准教授の「卜占の偶然性が持つ意味」のコーナー。
私は最初から占星術を体得したので、当初は命占に対して卜占的な目線を持っていませんでした。タロットに触りだしてから卜占の偶然性と相対していて、これが神意…!!となったのを覚えています。

記事で述べられている「自己意思の決定」としての卜占について。
意思決定について、どのプロセスを経れば自己意思だと言えるものになるのか。確かに決めごとをくじで占う=卜占で決めると一般の方の中で言えばいい加減だと解釈されやすい印象があります。
そもそも卜占と命占の区別すらないのが一般ですから「占いに頼って決める」と言えば、卜占であってもなくても「エーッ、何それいい加減〜!」とみがちなのが一般というものです。

では「いい加減」と「合理」とは、何をもって合理なのか。
たとえ門外漢が浅く考えたとしても、ここをクリアしてから初めて自己意思の決定を自分でしたという達成感が添えられるであろうからです。
ここを改めて考えたことがなかったので、お話は興味深いものでした。
今のところ私の理解は、俗な「ワー!ナニコレアタラシイ✨オモロ( ・∇・)」くらいの好奇心が主ですが、言われてみたら、なるほど論理性のみで構築できるなら、確かに「万人共通の一定の正解がこの世にあるはず」ということになりますね。
ならば同時に別の人が考えるブレがある限り、それがいかに論理性を装った似て非なる主観性なのかも語るところで。

完璧な論理も自己意思ではない、しかしやはり運任せもまた自己意思ではない。なら、エ、私たち日々の意思決定どの領域でしてるの?

これは、深い。

ここで思い出したのが、以前、何ソースで見たのか忘れてしまいましたが(スピ系の本)、時間というものは私たちにとって絶対存在でありひとつの制限として感じられるが、目に見えない世界の領域から見ると、そこかしこ隙間だらけでいくらでも出入りできる、という話。

どうしてもそこから先は、物理現象的に何が起きるのかを考えたら神秘やオカルトに寄ってしまう話なのですけども…

それ以前に哲学として考えたら。

むしろ合理性や論理性というもの自体が、現代の私たちの幻想なのでは?という気も少々いたしました。
因果論で説明つく範囲とつかない範囲があります。それはみな普段占っている人なら気づいていますが、この世が物理である以上日常生活範囲ではあたかも因果論で全て説明つきそうな錯覚がそこにあります。
けどこれは相対性理論以上量子論以下みたいなところがあって、またひとバージョンアップした時代になってみないとたぶん理屈と想像以上にはわからない。
また、ここで私は普段占って感じている「占い的な辻褄の合い方」を思い出すのですが、まだそこを上手くは説明できないですし、ここにまた未来から届く「予兆」の概念が加わると若干ややこしくはなります。

また、論理、合理が空想上の概念なら、「偶然」もまたそういった概念のひとつであろうという気もしました。
人の知恵で説明できない辻褄に対してそう名付け読んだだけで、元々この世に「偶然」という概念自体が人為的ラベリング以外に存在していないのでは?と思いました。要するに絶対的に人の意も神の意も関与しない事象がこの世にはもともとないかもしれない可能性。だけど昔の人はWiFiなんか知らないから、見えない宇宙のWiFi電波関与に対して「偶然」という概念ラベルを貼ったわけで。

私たちにはそう見える、ただそれだけのこと。

ならばホラリーでチャートを出しても、そのチャートが全てを語るようなことは何らおかしくないですし、人が不思議だと驚くことにすら説明不要の部分に思えました。

真田丸の「大事なことだからこそくじで決めるのだ」とあったお話では、その部分が元々のエピソードにあるのか演出か私はわかっていませんが、スピ筋の時間中でガラ隙論を採択するならば、そこに神意が込められることを予測した上での採択のようにも思えます。

人為を排して、神意を込める。

シンプルながら祈りを届ける唯一の方法だったのかもしれません。

興味深い考察のきっかけをありがとうございました✨

#mycalendar
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