ブラヴァツキー夫人(チャートつき)

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はじめに

当方、以前はスピリチュアルを濃度高くかじった時代もあった占星術師ですが、今では自分の仕事にスピリチュアル技を特に入れていません。組み込むのはタロットと時々オラクルカードです。で、そのオラクルカードの種類によっては時々関係あるのが、ここから展開される今のスピリチュアル源流のお話。(結局スピリチュアルの話)

TLで「アセンデッドマスター」という言葉を見まして。
つい出来心で「推しは常に好きな人にとって、大体の場合アセンデッドマスターです」という投稿しましたが、思い返せばその意味するところと用法は概ね正解ではあろうものの、その正確な意味を人に説明できるのかといったら微妙。
改めて用語確認サーチをかけてみたら、これが単語の意味どころではなく、アジを釣ろうと思って投げた釣り針にあらゆる海産珍味が引っかかってくる事態に至り、予想以上に興味深い。そこに神智学という名前が出てきました。

まず私、「神智学」自体を少し勘違いしていましたね。西洋の魔術大好きっこ大人クラブみたいな西洋カルチャー史のひとつで、とうに過ぎ去ったかなり過去の話かと思っていましたが…
解説を読み始めると、アセンデッドマスターだけではなく、次元上昇という言葉も出てきて、そのアセンデッドマスター名は「イエス、孔子、釈迦、聖母マリア、ヒラリオン、メルキゼデク、ミカエル、メタトロン、観音菩薩、サンジェルマン伯爵、クートフーミ…」
…おや?とても記憶にありますね?
ドリーンバーチュー博士の名前を知って、これまでオラクルカードをひいたことがある方なら誰もが知ってるはず。つまりはあれは神智学

神智学団体は1875年にブラヴァツキー夫人により創設され、そのまま世界のあちこちに活動展開。(活動拠点をロッジと呼ぶ)しかし、宗教なのか宗教ではないのかの定義が曖昧。組織側は宗教ではないと言っていて、外部からは宗教であると見解を持たれる範囲。つまりは「神秘全般、宗教性もカバーする思想、哲学込み」みたいな印象。現代人目線にはオカルト分野が既に確立されているからそれだなと思いますが、特定対象を崇めてないあたりを「宗教ではない」と言いたかったのかも。
特定の団体行動のみを持って教徒や信者とする形態ではなく、基本は精神性や哲学性についての「好み」。
ので、この2022年に日本国内にあるスピリチュアルの多くが高確率で神智学の活動カバー範囲であり、それは宗教と名乗らない宗教「ニューエイジ文化」としてこの数十年ずっと米国から日本に浸透してきたもので、むしろそこにご当地ものとして日本では龍神やら古神道やらを組み込んで独自発展を遂げている、と言った方がたぶん正しい予感。

つまり、私たちが日常的に接しているスピリチュアルも、ムーも、その他オカルトも、魔術も、チャネリングも、だいたい神智学にカバーされる活動かその派生活動に思えました。(気になり始めたばかりで詳細知るのはこれからですが)
古典宗教と違って、柔軟性が高いリスペクト先、活動や研究内容の展開幅を持つため、どこからどこまでが神智学の枠内事項でどこからがアウトというのも不明瞭ですが、神智学をベースに派生したニューエイジ方向の活動を同じく神智学ベースに活動する別の一派は快く思っていないなどもあり、混沌としてはいます。してはいますが、それだけに自由を証明するものでもあります。

何しろこの神智学団体の創始者、ブラヴァツキー夫人、宗教家らしいエピソードが出てくるのだろうと思っていたら全くそうではなくて、この数十年のスピリチュアリストあるある展開として「人生に迷ったらチベットとインドに行って真言を唱える」という行動の元祖というべきエピソードが出てきて、な、る、ほ、ど〜!( ・∇・) キミが自分探しの開祖なんだな!?と思いました。
タイプ的に、精神性を求めてどこの世代にもインドに行きたがる人がいるのは、デザイン事務所のボスの若かりし頃の思い出話でうっすら気づいていなくもなかったものの、日本なら行先チョイスでインドセレクトはわからないでもないですが、なんで西洋圏からもインド?とずっと思っていました。けれど、元々自国の文化圏にその世界観が既に先人から提示されていたなら、興味あれば逃避願望マックスな時には本などキッカケに思い浮かびますよね、それは…と、飲み込めました。

なにかといえばニューエイジがアジアのエッセンスを加えたがるのは精神世界のみならずのアートもですが、基本、精神世界にハマる星まわりの人は音楽や芸術全般の活動家である確率も高く、神智学の世界観が様々な形で各国に轟いたことはごく自然なことに思えました。
当然、サンディエゴで日食集会〜!セドナ〜!とか西洋オカルト系統のスピリチュアリストの一部が、占星術の隙間になぜかアジアを挟みたがるのも納得いきました。(日本では西洋占星術もインドも四柱推命も文化共存しているから併用は自然ですが、欧米圏は意識的に混ぜたいと思わないと「占い」「精神性」という切り口でなんとなくは混ざらない。)

結局、アセンデッドマスターとは何ぞや?という答えは、探しても何しろその答え自体がふんわりとしか説明されておらず、おそらくそのノリでヒーラー間を伝言的に広まって誰も説明できない状態なのでは?どれだけ調べてもスッキリ「こんなことだよ」と答えづらい。説明が私に対しての説明に全くなっていない。
現時点での理解。基本、神智学がベースとなったニューエイジ思想のことであり、半宗教的なお祈りの対象が複数存在し、神と人の世界の中間に存在する「神の世界に誘ってくれる数々の霊格の高い存在たち」のよう。

ちなみにこのページでは「神智学」そのものではなく、その創始者であるブラヴァツキー夫人に対してスポットを当てているので、とりあえずは日本語版のこちらをお読みくださいませ。

日本語WIKIPEDIA

「ブラヴァツキー夫人」項(2022/05/25)


ブラヴァツキー夫人のチャート

以下、ブラヴァツキー夫人のチャート。どうみてもその人生エピソードが海王星に超リードされた人生に思えたので、どんな星かと思って拝見させていただきました。


Blavatsky(ブラヴァツキー夫人)チャート
神智学団体の創始者。
ASC蟹座のルーラー月が3HにあってインターセプトながらMC牡羊冥王星オポ。天秤月の管轄7Hと10Hの状態、7Hに影響受けやすい8H、ノード軸も入れて活動性を考えると…
スケールを超えた驚異の出会い欲求コミュニケーション型ですが、それが7H絡みの割には一切パートナーシップへの欲求に向かわず、一定の距離を保った多数と円滑なコミュニケーションを図るという形で出る方。結果として社会活動で不特定多数を集め場を作る役になる方。
ご結婚も、趣味の合う友達や仕事仲間と文化や向上心をシェアしながら共同生活などが向いてる気がしますね。今で言うならスピリチュアルに凝った30代男女が、思想を共にする古民家で生活シェアなどのライフスタイルを想起します。
どちらかというと、純スピリチュアリストや教祖というよりも…、職業通訳的な星回りを強く感じるチャートで、ストーリーテラー、語り部なのですよね。チャートを一言で言うなら。
諸外国放浪伝記の中で事実と異なる部分が多くあったとしても、訴訟などは実際に出向かなければ起きようがないですし、結果として人生を通して人に新たな思想と世界を地球単位でつなぎ続け、語学に強い才覚を発揮した点から見て、その能力は十分に生かされていたと思います。とにかく多くの人と会って喋りたい。誰とでもコミュニケートしたい。実際にかなりスピーチ能力に長けていたと思います。交渉能力が高く、人へのホスピタリティも高く、多くの人に混ざって賑やかな場所が基本的に大好き。周りにはブラヴァツキー夫人がいる場所が居心地の良い知的好奇心を満たし続ける空間で、そのためいろんな人が彼女を慕ったように思います。パーティー万歳パリピ。

エピソードとチャートを照らし合わせると以下の点は納得いくものです。
・子供の頃から海外への旅三昧
・子供の頃から外国人と頻繁に出会う環境
・音楽家であった
・罹患した病
・虚言癖
・人生エピソードが伝え聞きで混乱したのではなく
 本人の話が矛盾だらけで事の真偽が不明瞭
・語学に堪能
・離婚
など。

思想の根底にあまり大きくフォーカスされずさらっと記載あるのが離婚暦。基本的には離婚した原因が結婚観の不一致が引き金である可能性ハイパーに思いましたが、17歳で数十歳年上のおじさんにご指名あって女子が嫁いだらそれなり欲の対象になるかもね、と。
若い頃の一瞬の結婚生活とその破局がこれらの行動の大きな引き金になっているので、そこは思想を語る前に私はフォーカスしたほうがいいと思います。女何歳だったとて、嫁いで結婚し、そこで幸せな夫婦生活と家庭に満足できれば、後世の歴史に刻み込むくらい地球上の精神性と哲学をひっくり返し世間をお騒がせするこのような事態には至っていない。
私が気になったのは、英WIKI最後の方に出てくるユダヤ教批判にも垣間見る、一環した「家至上主義嫌悪」「セックス嫌悪」「自由を与えて」感。ロマンチストで人間の生々しさが結婚生活でも無理な感じ。キャラがふんわりとして一見従順なロマンチスト型に見えるのも、この方にとっては人生リスクだったのでしょう。パートナーシップ依存大嫌い系のチャートですからね。エピソードを見ると、異常なくらいに引越し回数が多くて、子供時代から外国人との接点も多いのですが、生涯異邦人から与えられるものが多くて、それこそがこの方の生命のパートナーであり人生の呼吸だったのだろうと思います。

他内容をきちんと把握したいのは山々ですが、今日はもう眠くなってきたので英語WIKIにあるブラヴァツキー夫人の項目の訳文でご容赦を。おかしな訳文を見つけたら後で直すかもしれません。
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英wikipedia 「ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー」

2022/05/21

ロシアの作家で、1875年に神智学協会を共同創設した。神智学の代表的な理論家として国際的な支持を得た。

ロシア帝国のエカテリノスラフ(現ウクライナ・ドニプロ)の ロシア・ドイツ系の貴族の家に生まれ、幼少期は帝国の各地を広く旅した。独学で学び10代の頃に西洋秘境主義(エソテリシズム)に興味を抱くようになり、後年、自身が1849年に世界旅行に出発してヨーロッパ、アメリカ大陸、インドを訪れたと語る。またこの時期に「Masters of the Ancient Wisdom(いにしえの叡智の達人)」と呼ばれる精神世界の達人たちに出会い、チベットのシガツェで、宗教、哲学、科学の統合について深く理解し鍛錬を受けるために派遣されたと語る。しかし現代評論家も後世の伝記作家も、これらの外国訪問ストーリーは一部ないしその全貌が創作であり、彼女はこの時期をヨーロッパで過ごしていたとする。1870年代初頭、ブラヴァツキーはスピリチュアリスト運動に参加し、精神世界が真に存在することを擁護する一方で、接触する存在を死者の霊だとするスピリチュアリスト主流派への反対主張を行った。彼女は1873年にアメリカに渡り、ヘンリー・スチール・オルコットと親しくなり霊媒として世間の注目を浴びるようになったが、その際に詐欺だとして世間から非難を浴びた。

1875年ニューヨークで、ブラヴァツキーはオルコット、ウィリアム・クアン・ジャッジと神智学協会を設立する。1877年に神智学的世界観の概要を記した『解き明かされしイシス( Isis Unveiled / イシス アンベールド )』を出版。ブラヴァツキーは、神智学をヘルメス主義や新プラトン主義の秘教的教義と密接に関連づけて「科学、宗教、哲学の統合」と表現し、世界のあらゆる宗教の根底にある「いにしえの知恵」を蘇らせるものであると宣言をした。1880年にオルコットとインドに渡り、協会はヒンドゥー教の改革運動であるアーヤ・サマジと同盟を結んだ。同年セイロンに滞在していたブラヴァツキーとオルコットは、アメリカ人として初めて正式に仏教に改宗。神智学はイギリスの植民地行政に反対されながらもインドで急速に普及したが、ブラヴァツキーがインチキで超常現象を起こしたとして非難され、内部問題に直面することになった。健康を害した彼女は1885年にヨーロッパに戻り、ロンドンにブラヴァツキー・ロッジを設立。ここで彼女は、チベットの古文書を解説した『秘密の教義( The Secret Doctrine )』を出版し、さらに『神智学の鍵( The Key to Theosophy )』と『沈黙の声( The Voice of the Silence )』の2冊の本を出版。インフルエンザで死去。

ブラヴァツキーはその生涯において、支持者からは覚醒した聖者として支持され、批判者からは詐欺師と揶揄され、物議を醸した人物であった。彼女の神智学の教義は、西洋におけるヒンドゥー教や仏教の思想の普及に影響を与え、またアリゾフィー、アントロポゾフィー、ニューエイジ・ムーブメントなどの西洋秘教の流れに発展させた。

まば人力訳注1)
「神秘主義」「秘境主義」は日本語では語彙として似ているものの、確認をしたら、英単語としては「 mysticism(神秘主義) / esotericism (秘境主義)」で明確に異なる。が、自動翻訳も時に間違うくらい近いところにいる言葉なので詳細は要確認。ここでの主題は明確に西洋の「エソテリシズム」の方。

まば人力訳注2)
アリゾフィー( Ariosophy )アルマニズム。オーストリア発の秘境思想体系
https://en.wikipedia.org/wiki/Ariosophy
アントロポゾフィー
 ( anthroposophy )シュタイナーのこと
https://en.wikipedia.org/wiki/Anthroposophy 
ニューエイジ・ムーブメント( New Age )
https://en.wikipedia.org/wiki/New_Age 現代スピリチュアルに通じる流れ

※この3点を調べると話長いので省略。もうリンクから自力でおググりくださいませ。
要はそれらがブラヴァツキー夫人活動、神智学ベースに二次展開された活動と見受けられるという見解が英Wikiにあると。

幼少期

ブラヴァツキーは後年、自身の過去について意図して矛盾した解説や改ざんを行ったため、伝記として信頼おける記述での解説作成は困難である。さらに1873年以前の著作がほぼ残っておらず、記述は信頼性に乏しいこれら後年の解説に大きく依存する。彼女の家族により提供された幼少期の生活についても、伝記としては疑わしいとみなされてきた。

幼少期:1831年~1849年
出生と家庭環境
ブラヴァツキーは、当時ロシア帝国の一部であったエカテリノスラフの町でヘレナ・ペトロヴナ・フォン・ハーンとして生まれた。誕生日は1831年8月12日(当時のロシアで使われていたユリウス暦では7月31日)。 エカテリノスラフではコレラが流行して、母親は産後まもなくコレラに感染したが、担当医の予想に反して母子ともに一命を取り留める。

母はヘレナ・アンドレーヴナ・フォン・ハーン(旧姓ファデイーヴァ)で、同じく独学で貴族であったイェレナ・パブロヴナ・ドルゴルカヤ王女の娘で17歳まで独学で勉強していた。ブラヴァツキーの父親はピョートル・アレクセイヴィチ・フォン・ハーン、ドイツの貴族一族の子孫で、ロシア王国馬術隊の隊長を務め、後に大佐に昇進。 (父親はロシア支配問題でポーランドで戦っていたため娘の誕生には立ち会えず、生後6ヶ月で初めて会った。 ブラヴァツキーはロシアとドイツの祖先に加えてフランスの遺産も語っていた。曾祖父はフランスのユグノー貴族で、迫害から逃れるためにロシアに逃れ、エカテリーナ大帝の宮廷に仕えていた。

まば注)
とにかく家柄がいい、血統がいい。どこからどうルートとっても家に守られ方に無駄なし。太陽のコンディション見てまぁまぁ金持ちのチャートかな?とは思うけれども、チャート自体はダイレクトに金持ちっぽい感じではないので少し意外。
そして精神世界や芸術、哲学などの実務に関係ないテーマにはことに金持ちの娘息子の暴走がいつの時代も最大の生産性であると再確認する話。自分が食べて生きるための時間をいかに最小限にするかが文化発展の源。
またこの親や当人のプロフに「独学で」とあるのは何?と気になりました。当時の西洋文化圏では既に学校教育は一般的ではありましたが、貴族など一部の家柄がいい人は都内での「公立ではなく私立の学校に通う」みたいな感覚でその子に合わせた教育をしたのかな?と思いつつ、このへんはまだ調べて確認する余地ありです。サブテーマ保留。

ーーーーーー 人力翻訳修正ここまで ーーーーーー

ピョートルのキャリアに伴い、一家は使用人を伴って帝国の各地に頻繁に移動した[16]が、この移動の多い子供時代が、後年のブラヴァツキーの主に遊牧民としてのライフスタイルに影響を与えたのかもしれない[17]。 1835年、母娘はブラヴァツキーの母方の祖父で帝国当局の行政官であったアンドレイ・ファデーエフが赴任してきたばかりのオデッサに移り住んだ[19][20]。この街でブラヴァツキーの妹ヴェーラ・ペトロヴナが誕生した[20]。

サンクトペテルブルク、ポルタヴァ、サラトフ
ピョートルはウクライナの田舎町に戻った後、サンクトペテルブルクに赴任し、1836年に一家はそこに移り住んだ。ブラヴァツキーの母はこの街を気に入り、そこで「ゼナイダ・ルヴァ」のペンネームで小説を書いたり、イギリスの小説家エドワード・ブルワー・リットンの作品をロシアで出版するために翻訳するなど、独自の文学活動を展開した[21]。 [22] ファデーエフが中央アジアのカルムイク人のための管財人に任命された後、ブラヴァツキーと彼女の母親はアストラカンに同行し、カルムイク人のリーダー、トゥメンと親しくなった[23] カルムイク人はチベット仏教を実践しており、ブラヴァツキーはここで初めてこの宗教に触れた[24] 。

1838年、ブラヴァツキーの母は娘たちを連れて夫のいるポルタヴァに移り、そこでブラヴァツキーにピアノの弾き方を教え、ダンスのレッスンを受けさせるように仕向けた[25]。 [その後、一家はポーランドに渡り、再びオデッサに戻ったが、母親は1842年6月に28歳で結核のため死去した[28]。

歴史家のリチャード・ダベンポート・ハインズは、幼いブラヴァツキーについて、「愛玩され、気ままで、病弱な子供」で、「魅力的な語り手」であったと述べている[29]。 [祖父母と共にトゥーメンのカルムイク・サマーキャンプで休暇を過ごし、乗馬とチベット語を習った[33]。

後に、サラトフで母方の曽祖父であるパーヴェル・ワシレヴィチ・ドルゴルーコフ公(1838年没)の個人蔵を発見し、そこには難解なテーマに関する様々な書籍があり、彼女の急成長を促したと主張している[34]。ドルゴルーコフは1770年代末にフリーメイソンに入会して厳格遵守騎士団に属しており、アレッサンドロ・カリオストロやサンジェルマンを会ったという噂があった[35]。また、この時期から「謎のインディアン」と遭遇する幻視を経験するようになり、後年、この男に実際に会うことになったと後に述べている[36]。多くの伝記作家はこれを彼女の生涯における「マスターズ」の最初の登場とみなしている[37]。

後年の記述によれば、1844年から45年にかけてブラヴァツキーは父親に連れられてイギリスに行き、ロンドンとバースを訪れた[38]。この話によれば、ロンドンで彼女はボヘミアの作曲家イグナツ・モシェレスからピアノのレッスンを受け、クララ・シューマンと共演した[39]。しかし、特に彼女の姉の回想録にそのことが書かれていないので、このイギリス訪問は実現しなかったと考えるブラヴァツキー伝記作家もいる[40]。 叔母のエカテリーナ・アンドレーエヴナ・ヴィッテと1年間暮らした後[41]、祖父アンドレイがトランスコーカサスの国有地監督に任命されていたグルジアのティフリスに移住した[42]。 [ブラヴァツキーは、ここでロシアのフリーメイソンでゴリーツィン家の一員であるアレクサンドル・ウラジミロビッチ・ゴリーツィンと友情を築き、難解な事柄への関心を促したと主張している[43]。 またこの時期、彼女はさらに超常体験、アストラルトラベル、ビジョンにおける「神秘のインド」との再会をしたと主張するだろう[44]。

世界旅行:1849-1869
17歳のとき、エリバン州副知事を務める40代の男性、ニキフォール・ブラヴァツキーと結婚することに同意した。彼女は結婚式の直前に結婚を取りやめようとしたが、1849年7月7日に結婚が成立した[47]。 彼とともにサルダール宮殿に移り、彼女はティフリスの家族のもとに逃げようと何度も試みたが失敗し、結局、彼が承諾した[48]。家族は彼女を使用人と女中に伴わせて、サンクト・ペテルブルグに帰ろうとする父親に会うためオデッサへ送り、彼女と一緒にサンクト・ペテルブルグに戻った。護衛はポチ、ケルチまで同行し、そのままオデッサに向かうつもりであった。ブラヴァツキーは、護衛から逃れ、ケルチに彼女を連れて行った船の船長に賄賂を渡し、コンスタンティノープルにたどり着いたと主張している[49]。これが、おそらく父親の資金援助による、世界を旅して過ごした9年間の始まりとなった[50]。

当時、彼女は日記をつけておらず、彼女の活動を検証できる親族も同行していなかった[51]。 したがって、秘教史家のニコラス・グドリック=クラークは、これらの旅行に関する公的知識は「彼女自身のほとんど裏付けのない記録」にかかっており、それは「年代において時々矛盾する」ことで傷つけられていると指摘した[52]。 [宗教学の研究者であるブルース・F・キャンベルは、彼女の人生の次の25年間について「信頼できる説明はない」と述べている[53]。伝記作家のピーター・ワシントンによれば、この時点で「ブラヴァツキーの伝記において神話と現実がシームレスに融合し始める」[54]という。]

後に彼女は、コンスタンチノープルでアガルディ・メトロヴィッチというハンガリーのオペラ歌手と友情を育み、殺されそうになった彼を助けたのが最初の出会いだったと主張している[55]。また、エジプト、ギリシャ、東欧へのツアーに同行することになるソフィア・キセリョワ伯爵夫人に出会ったのもコンスタンチノープルであった[56]。 [カイロでは、後に中東について幅広く執筆したアメリカの美術学生アルバート・ローソンと出会い[57]、一緒にコプト教の魔術師パウロス・メタモンを訪ねたとされる[58]。1851年にはパリに進み、そこでメスメリストのビクター・ミシャルに出会い、感銘を受ける[59]。そこからイギリスに渡り、ここで幼少期のビジョンに現れた「不思議なインド人」、彼女がマスター・モーリャと呼んだヒンズー教徒と出会ったと主張することになる。二人がどのように出会ったかについては、ロンドンとラムズゲートの両方で別々の話をするなど、さまざまな矛盾した説明をしているが、彼女は、彼が自分に特別な使命があり、チベットに行かなければならないと主張したと主張している。

彼女はアメリカ大陸を経由してアジアに向かい、1851年秋にカナダに到着した。フェニモア・クーパーの小説に触発され、ケベックの先住民のコミュニティを訪れ、彼らの魔術や宗教の専門家に会おうとしたが、代わりに強盗に遭い、後にこれらの先住民の行動はキリスト教宣教師の堕落の影響によるものとされる[61]。 [61] その後、南下してニューオリンズ、テキサス、メキシコ、アンデスを訪れ、西インド諸島からセイロン、ボンベイへと船で移動した[62]。モリヤが送った手紙にある指示に従って、インドで2年間過ごしたとされる[63] チベットに入ろうとしたが、イギリスの植民地行政に阻止された[64]。

その後、船でヨーロッパに戻り、喜望峰付近での難破を乗り越えて、1854年にイギリスに到着したが、イギリスとロシアの間で進行中のクリミア戦争のためにロシア国民として敵意に直面したと後に主張している[65]。シカゴ、ソルトレイクシティ、サンフランシスコを巡った後、日本経由でインドに戻る[67]。 [この記録によれば、二人はレーに到着した後、道に迷い、最終的にタルタルの旅行団と合流し、彼女はインドに戻った[70]。

フランスとドイツで過ごした後、1858年に彼女は当時プスコフを拠点としていた家族の元に戻った[72]。彼女は後に、そこでラップとクリーキングが家の周りで同行し、家具が自らの意思で動くという超常能力をさらに見せ始めたと主張した[73]。 1860年に彼女と彼女の姉はティフリスの母方の祖母の元を訪れた。そこでメトロヴィッチと再会し、1862年にはニキフォルと和解した[74]。1867年に5歳で亡くなったユーリはメトロヴィッチ姓で埋葬された[75]。1864年にミングレリアで乗馬中に落馬し、脊椎骨折で数ヶ月昏睡状態になった。1867年、バルカン半島、ハンガリー、そしてイタリアに渡り、ヴェネツィア、フィレンツェ、メンタナで過ごし、後者ではメンタナの戦いでジュゼッペ・ガリバルディと戦って負傷したと主張している[79]。

チベット
その後、モーリヤからコンスタンティノープルに行くようにとのメッセージを受け、そこでモーリヤと出会い、一緒に陸路でチベットに向かい、トルコ、ペルシャ、アフガニスタン、インドを経て、カシミール経由でチベットに入った[80]。そこで、モーリヤの友人で同僚のクート・ホーミ師の家に滞在し、シガツェのタシルフンポ僧院近くにあったとされている。ブラヴァツキーによれば、モーリヤもクート・ホーミもパンジャブ系のカシミール人であり、クート・ホーミは彼の家でチベット仏教のゲルク派に属する学生を指導していたという。クート・ホーミはロンドンとライプチヒで過ごし、英語とフランス語に堪能であり、モーリヤと同様に菜食主義者であったと記述されている[81]。

チベットではセンザーと呼ばれる古代の未知の言語を教えられ、僧院の僧侶によって保存されていたこの言語で書かれた多くの古文書を翻訳したと主張している;しかしながら、僧院そのものに入ることは許されなかったと述べている[82]。これらの「マスター」の能力として、彼女は千里眼、千里眼、テレパシー、他人の意識をコントロールする能力、物理的なオブジェクトを非物質化および再物質化する能力、アストラル体を投影する能力、したがって同時に二つの場所にいるように見えることを挙げている[83]。 [ブラヴァツキーは、1868年後半から1870年後半までこの精神的隠遁生活を送ったと主張している[84]が、これは彼女の姉が提供した記述を含む、後の様々な資料で彼女のために行われる主張である[85]。

多くの批評家や伝記作家が、チベット訪問に関するブラヴァツキーの主張の信憑性に疑問を呈しており、彼女自身の主張に全面的に依拠しており、信頼できる独立した証言がない[86]。19世紀中、チベットはヨーロッパ人に閉鎖されており、訪問者は山賊や厳しい地形の危険に直面していたことが強調されており、ブラヴァツキーが後年と同様にがっしりして運動不足だったならば、後者はより問題であったと考えられる[87]。 しかし、複数の伝記作家が指摘するように、近隣諸国からの商人や巡礼者はチベットに自由にアクセスできたので、特に彼女がアジア人と間違われた場合は、モーリヤを伴って入ることが許された可能性を示唆している[87]。 ブラヴァツキーのシガツェでの目撃談は西洋では前例がなく[84]、仏教学者の一人である鈴木大拙は、彼女が後にチベットの僧院で勉強したことと一致する大乗仏教の高度な知識を示したことを示唆した[89]。 [89] ラクマンは、もしブラヴァツキーがチベットに滞在していたならば、彼女は「19世紀における最も偉大な旅行者の一人」となるだろうと述べているが[90]、ブラヴァツキーがチベットに滞在していたかどうかは「正直に言って私にはわからない」と付け加えている[91]。 逆に伝記作家マリオン・ミードは、チベットやその他の様々な冒険の物語について「この中のほとんど一字たりとも真実とは思えない」と言ってコメントしている[92]。

ブラヴァツキーは、霊能者が確認した現象が客観的に実在することを世界に証明する使命を持ってチベットを出発したと主張し、詐欺の非難から霊能者を守ろうとしたのである。しかし、霊能者の霊媒が接触しているのは、一般的に霊能者運動が主張するような死者の霊ではなく、いたずら好きのエレメンタルか、死者が残した「貝殻」であると述べた[93]。 彼女はスエズ運河経由でギリシャに向かい、そこでマスターの一人、マスターヒラリオンに会う。SSユーモニア号でエジプトに向けて出航したが、1871年7月に船旅中に爆発し、ブラヴァツキーはわずか16人の生存者の一人として生き残った[94]。 カイロに到着した彼女は、メタモンと出会い、エマ・カッティングという女性の助けを借りて、スピリテ・スピリット協会を設立した。この協会は、アラン・カルデックが創設したスピリチュアリズムの一形態で、主流のスピリチュアリスト運動とは対照的に、輪廻転生の信念を公言しており、主にスピリティズムに基づいていた[96]。 [カイロでは、エジプト学者のガストン・マスペロや、マスターの一人であるセラピス・ベイとも会っていた[98]が、彼はすぐに腸チフスで死亡し、ブラヴァツキーはその葬儀を取り仕切ったと主張している[99]。

エジプトを出て、彼女はシリア、パレスチナ、レバノンに行き、そこでドゥルーズ教のメンバーに出会った[100]。この旅の間に、彼女は作家で旅行家のリディア・パシュコヴァと出会い、この時期のブラヴァツキーの旅について独自の検証を行った[101]。 [1872年7月、彼女はオデッサの家族のもとに戻り、1873年4月に出発した[102]。ブカレストとパリで過ごしたが、後の主張によると、モーリヤが彼女にアメリカへ行くように指示した。1873年7月8日にニューヨークに到着し[104][105]、そこでマンハッタンのローワーイーストサイドにあるマディソンストリートの女性用住宅協同組合に入居し、縫製や広告カードのデザインなどの出来高払いの仕事で賃金を得た[106] ここで彼女は注目され、ニューヨーク新聞『サン』のジャーナリストであるアナ・バラードによってインタビューを受ける。 [1874年12月、ブラヴァツキーはグルジア人のミヘイル・ベタネリに出会う[109]。最初の夫がまだ生きていたため、これは重婚にあたる。しかし、彼女が結婚を完了することを拒否したため、ベタネリは離婚を訴え、グルジアに帰国した[110]。

ヘンリー・スチール・オルコットとの出会いと神智学協会の設立
ブラヴァツキーは、バーモント州チッテンデンに住むウィリアムとホレイショ・エディという兄弟が、空中浮揚や霊的現象を現すことができると主張しているニュース記事に興味を抱いた。1874年10月、彼女はチッテンデンを訪れ、そこで『デイリー・グラフィック』紙のために兄弟の主張を調査していた記者ヘンリー・スチール・オルコットと出会った[111]。 ブラヴァツキーが彼女自身の霊現象を現す能力に感銘を受けたと主張して、オルコットは彼女に関する新聞記事を執筆した[112] 彼らはすぐに親友となり、お互いに「マロニー」(オルコット)、「ジャック」(ブラヴァツキー)というあだ名を付けた[113]。 [デイリー・グラフィックス』誌の編集者にブラヴァツキーのインタビューを掲載するよう働きかけ[114]、スピリチュアリズムに関する著書『あの世からの人々』(1875年)でブラヴァツキーについて論じ、ロシアの通信員アレクサンドル・アクサコフからロシア語に翻訳するように促される[115]。 彼女はオルコットに自身のオカルト信仰を教え始め、彼女に励まされて彼は独身、ティータリング、ベジタリアンになったが、彼女自身は後者を約束することはできなかった[116]。 [1875年1月、二人はフィラデルフィアの霊能者ネルソンとジェニー・オーウェンを訪れ、オーウェン夫妻はオルコットに、彼らの起こす現象が詐欺でないことを証明するためにテストするよう依頼し、オルコットは彼らを信じるが、ブラヴァツキーは本物の現象が現れない場合、彼らはその一部を偽っていると意見した[118]。

ブラヴァツキーとオルコットは、自分たちのアイデアに興味を持たせるために、エルドリッジ・ジェリー・ブラウンがボストンを拠点に発行していたスピリチュアリストの出版物『スピリチュアル・サイエンティスト』に回状を掲載し、そこで自分たちを「ルクソールの同胞団」と名付け、既存のルクソールの密教同胞団からインスピレーションを得た可能性がある名前をつけた[120]。 彼らはニューヨークの一連の賃貸アパートで生活を始め、剥製動物や精神の象徴のイメージで飾り、彼らの生活の資金は主にオルコットの弁護士としての仕事の継続によって調達されていた[121]。 [121] 彼らの最後のアパートはラマセリーとして知られるようになった[122] ブラヴァツキーとオルコットは、マスターたちから勧められたとされるミラクルクラブを設立し、そこを通じてニューヨークで秘教的なテーマについての講義を進めた[123] このグループを通じて、彼らは多くの興味を共有するアイルランド人の霊能力者、ウィリアム・クアンジャッジと出会った[124]。

1875年9月7日のミラクルクラブの会合で、ブラヴァツキー、オルコット、ジャッジは秘教的な組織を設立することに同意し、チャールズ・ソテランはそれを神智学協会と呼ぶことを提案した[125]。神智学という用語はギリシャ語のtheos(「神(たち)」)とsophia(「知恵」)から来ており、したがって「神の知恵」あるいは「神の知恵」を意味している[126]。 [126] この言葉は新しいものではなく、以前からフィラテウスやキリスト教の神秘主義者ヤコブ・ベーメによって様々な文脈で使われていた[127] 神智学者たちはしばしば神智学をどう定義するかについて議論し、裁判官はその作業は不可能であるという見解を示していた。 [126] しかし、ブラヴァツキーは神智学がそれ自体で宗教ではないと主張した[128] 。 [130] 著名な初期のメンバーには、エマ・ハーディンゲ・ブリテン、シニョール・ブルッツェシ、C.C.マッシー、ウィリアム・L・オルデンなどがいた; 全員が長くメンバーに留まることはなかったが、多くは著名で成功した設立メンバーだった[131] 。

Isis Unveiled
1875年、ブラヴァツキーは神智学の世界観を概説する本の執筆を開始し、その大部分はコーネル大学の英文学教授であるハイラム・コルソンのイサカの家に滞在して執筆されることになる。執筆中、ブラヴァツキーは自分の身体の中にある第二の意識を意識していると主張し、それを「私の中にいる宿主」と呼び、この第二の意識が執筆の多くを触発したと述べている[133]。 [134] 『イシス・アンヴェイル』において、ブラヴァツキーは他の秘教的、宗教的テキストから広範囲に引用しているが、同時代の同僚であるオルコットは常に彼女が入手していない本から引用したと主張している[135]。

世界のすべての宗教は単一の「古代の知恵」に由来するというブラヴァツキーの考えを中心に発展し、彼女はそれを古代ヘルメス主義や新プラトン主義の西洋秘教と結びつけた[138]。またスピリチュアリズムに関する彼女の考えを明確にし[139]、ダーウィン進化論が物理的世界のみを扱い、精神世界を無視していると述べて批判した[140]。この本は哲学教授のアレクサンダー・ウィルダが編集し、J・W・ブトンから1877年に2巻で出版されている[141]。 [しかし、1,000部の初版本が1週間で完売するほどの商業的成功を収め[143]、出版社は続編を要求したが、ブラヴァツキーはその申し出を断った[144]。 [137] 『イシス・アンヴェイルド』が成功した一方で、協会はほとんど活動しないままであり、1876年秋にこの状態に陥った[144]。 これは、組織の新しいロッジがアメリカとロンドンに設立され、トマス・エディソンやアブナー・ダブルデイといった著名な人物が参加していた事実にもかかわらずだった[145] 1878年7月にブラヴァツキーがアメリカの市民権を獲得した[147]。

インド 1879-1885
神智学協会は、スワミ・ダヤナンダ・サラスワティによって設立されたインドのヒンドゥー教の改革運動であるアーヤ・サマジと関係を持った。ブラヴァツキーとオルコットは、この二つの組織が共通の精神的世界観を共有していると考えていた[148]。12月、二人は所持品の多くを競売にかけるが、エジソンからインドに持っていくための蓄音機を贈られる[150]。街では、アーリア・サマジのメンバーであるハリーチャンド・チンタモンが企画した祝賀会で迎えられ、ボンベイの原住民地域の一部であるギルガウム通りに家を得た[152]。

多くの教育を受けたインド人は、神智学者がインドの宗教を支持していることに感銘を受け、大英帝国の「価値観や信念に対する(インドの)自己主張が高まっている」時期に生まれた[154]。 4月、ブラヴァツキーはオルコット、バブラ、友人のムールジ・サッカシーをカルラ洞窟に連れて行き、そこにはマスターズが集まる地下の場所に通じる秘密の通路があると告げた[156]。そしてマスターズがパンジャーブのラージプターナに向かうようテレパシーで命令していると主張し、オルコットとともに北上した[157]。 [157] ヤムナ川で52年間蓮華座に座っていたサニヤシンのバブ・スルダースと出会い、アグラではタージ・マハルを見た[158] サハランプールでダヤーナンダとアーヤ・サマジストと会い、ボンベイに戻った[159]。

ブラヴァツキーは、統治するイギリスのエリートよりもむしろインド人と主に付き合い、15歳のグジャラート人の少年、ヴァラー「バブラ」ブラーを個人的な使用人として連れて行った[153] 教育を受けている多くのインド人は、大英帝国の「価値と信念に対する(インドの)成長した自己主張」の時期に生まれたインドの宗教を支持する神智学者に感銘を受けていた。 154] 都市での彼女の行動はイギリスの情報局によって監視されていて、ロシアのために働いていると疑われていた[155]。 4月、ブラヴァツキーはオルコット、バブラ、友人のムールジ・サッカシーをカルラ洞窟に連れて行き、そこにはマスターズが集まる地下の場所に通じる秘密の通路があると告げた[156]。そしてマスターズがパンジャーブのラージプターナに向かうようテレパシーで命令していると主張し、オルコットとともに北上した[157]。 [157] ヤムナ川で、彼らは52年間蓮華座に座っていたサニヤシンのバブ・スルダースに会い、アグラではタージ・マハルを見た[158] サハランプールで彼らはダヤーナンダと彼のアーヤ・サマジストに会い、ボンベイに戻った[159].

1879年7月、ブラヴァツキーとオルコットは月刊誌『Theosophist』の制作を開始し、10月に創刊された[160]。雑誌はすぐに多くの読者を獲得し、神智学者で、マスターをマハトマと呼ぶという考えを導入したダモダール・K・マヴァランカルが経営を引き継いだ[161]。 12月にブラヴァツキーとオルコットはアラハバードへ行き、『Pioneer』の編集者で、熱心にスピリチュアリストをしていたアルフレッド・パーシー・シネットを訪問した。シネット家にはA.O.ヒュームも客として来ており、ブラヴァツキーは彼らの前で超常現象を起こすように勧められる[162] そこからベナレスに行き、ヴィジアナグラムのマハラジャの宮殿に滞在する[163]。そこで彼らは正式に仏教に改宗し、明らかにアメリカから初めて改宗した[164]。1880年5月にラーマーヤナ・ニカーヤナでの儀式で五戒を受けた[165]。島を巡ると、キリスト教の布教よりも仏教を受け入れた珍しい西洋人に興味を持った群衆に出迎えられることになった。彼らのメッセージはシンハラ人の民族主義者の自尊心を高めることを証明し、彼らはキャンディで仏陀の歯を見るように招待された[166]。

しかし、クーロン夫妻は、同じくブラヴァツキーと同居していたアメリカの神智学者ローザ・ベイツとエドワード・ウィンブリッジを困らせ、ブラヴァツキーがクーロン夫妻の味方をすると、ベイツとウィンブリッジはアメリカに帰国することになった[168]。 その後、ブラヴァツキーはシネットと過ごすためにシムラに招かれ、そこで他のゲストを驚かせるような様々な物質化を行った。ある例では、ピクニック中にカップ&ソーサーを土の下に物質化させたと言われている[169]。 シネットは自らマスターたちと接触することを熱望し、ブラヴァツキーにこのコミュニケーションを促進するよう説得し、その結果、クート・ホーミとモーリヤが執筆したとされる1400ページを超える『マハトマ・レターズ』として知られるようになった[170]。シネットはこれらの手紙に含まれる教えを『密教』(1883)という本に要約したが、マックス・ミュラーなどの仏教学者はその内容が仏教的ではないと公に強調しており、ブラヴァツキー自身も誤解を招く題名を嫌悪している[171]。 [171] この本の出版以来、手紙の真偽については多くの議論があり、ブラヴァツキー自身によって書かれたと主張する者もいれば、別々の人物によって書かれたと考える者もいる[172][173] ミードによれば、「ヘレナがその著者であるという合理的な疑いはありえない」[174] 。

神智学はキリスト教の宣教師とイギリスの植民地行政の両方から不人気であり[175]、インドの英字新聞は協会に対してほぼ一様に否定的だった[176]。 それでもグループは人気を博し、国中に支部が設立された[177]。 [ブラヴァツキーは、イギリスのエリートの間よりも、インドの先住民の間での成長を強調していたが、彼女はボンベイ郊外のブリーチ・キャンディのエリートにある快適なバンガローに移り住み、西洋の訪問者がよりアクセスしやすくなったと語った[178]。オルコットは、セイロンのキリスト教信仰の普及と戦うために仏教教育基金を設立すると決め、島のシンハラ人の間で仏教に対する誇りと関心を奨励することにしていた。ブラヴァツキーは当初、師匠たちが認めないだろうと反対していたが、オルコットのプロジェクトが成功することがわかり、意見を改めた[179]。

ブラヴァツキーはブライト病と診断されており、天候が体調に良いことを望んで、協会のマドラス支部の申し出を受けて、その都市に引っ越した[180]。しかし、1882年11月に協会はアディヤーに不動産を購入し、それが恒久本部となり、ブラヴァツキー用に数部屋が確保されて、12月にはそこに入居した[181]。 [健康状態が悪化していたため、彼女はオルコットのイギリス旅行に同行することに同意し、オルコットはセイロン仏教について主張し、協会のロンドン・ロッジとの問題を整理する予定であった[183][184]。

1883年3月にフランスのマルセイユに出航し、ニースで神智学会のフランス支部の創設者であるケイスネス伯爵夫人(ケイスネス伯爵14世のジェームズ・シンクレア未亡人)と過ごし、その後パリまで一緒に過ごす。 ロンドンではロッジの会議に登場し、一方ではシネット、他方ではアンナ・キングスフォードやエドワード・メイトランド間の議論を鎮めるよう努める[185][186]。 [ブラヴァツキーが「耐え難い俗物的な女性」と考えていたキングスフォードは、満足できずに神智学協会を離れ、密教協会を設立した[187]。彼女は、自分と自分が持っていると主張する超常的な能力の研究を行うという彼らの要求に応じたが、その組織には感銘を受けず、「不気味な研究協会」と揶揄するように言った[189]。

ブラヴァツキーがヨーロッパにいるとき、協会のアディヤー本部で「クーロン事件」として知られるようになったトラブルが発生した。協会の管理委員会は、エマ・クーロンが協会の資金を自分の目的のために不正に流用したと非難し、彼女にセンターから退去するように要求した。エマとその夫はこれを拒否し、ブラヴァツキーが書いたとする手紙や、彼女の超能力が詐欺であることを証明する手紙によって、協会を脅迫した。そこで夫妻は、マドラスにある『クリスチャン・カレッジ・マガジン』誌を頼り、クーロン夫妻の主張をもとに、ブラヴァツキーの詐欺の疑惑を暴露する記事を出版した。これを受けて、1884年11月にブラヴァツキーはカイロに向かい、神智学者チャールズ・ウェブスター・リードビーターとともにエマ・クーロンのネガティブな情報を探し、彼女がかつて強要と犯罪を繰り返していたという話を発見した[191][192]。 ブラヴァツキー自身と同様にインドで人気を保っていたが、協会はクーロン事件によって内部的に大きなダメージを受けた[193][194]。

ヨーロッパでの晩年:1885-1891
1885年までに、神智学協会は急速な成長を遂げ、世界中で121のロッジがチャーターされ、そのうちの106はインド、ビルマ、セイロンに位置していた[195]。 [196] 当初、各ロッジはアディアール本部から直接チャーターされ、会員は投票によって民主的に決定した[196]。 しかし、数年後、ロッジは独自の支配評議会を持つ国単位の組織になり、異なるレベルの管理間の緊張をもたらした[196]。

1885年4月にイタリアのナポリに定住し、彼女はわずかな協会の年金で暮らし始め、次の著書『秘密の教典』の執筆を続けた[197]。その後、彼女はバイエルン王国のヴュルツブルクに移り、そこでスウェーデン人の神智学者、コンスタンス・ワクトマイスターを迎え、彼女の残りの人生の間、常に同行することになる。 1885年12月、SPRはブラヴァツキーと彼女の申し立てられた現象に関するリチャード・ホジソンが執筆した彼らの報告を発表した。ホジソンは報告書の中で、ブラヴァツキーがロシア政府のスパイであると非難し、さらに、主にクーロンの主張に基づいて超常現象を捏造していると非難した[199]。この報告書は協会内に大きな緊張をもたらし、ババジやスバロウなどの多くのブラヴァツキー信者が彼女を糾弾して、それに基づいて組織から辞職することになった[200]。

ブラヴァツキーは告発者を訴えようとしたが、オルコットは周囲の評判が協会にダメージを与えると考え、それを避けた[202]。私信でブラヴァツキーは、批判が自分に集中し、マスターたちの正体が公に暴露されなかったことに安堵している[203]。その後数十年にわたって、神智学者がホジソンの手法を批判し、彼が彼女の主張と能力について偏らない分析ではなく、ブラヴァツキーに対する反証と攻撃を試みたと主張していた[204]。1986年にSPRはこれが事実であることを認め、報告書の調査結果を撤回した[204][205]。しかし、ジョンソンは「神智学者がこれを完全な正当化として過剰解釈したが、実際にはホジソンが提起した多くの疑問は未解決のままである」とコメントしている[206]。

1886年、車椅子を使うようになったブラヴァツキーはベルギーのオステンドに移り住み、ヨーロッパ中から神智学者が訪れるようになった[207]。 [1887年5月にロンドンに到着し、当初は神智学者メイベル・コリンズのアッパー・ノーウッドの家に滞在した[210]。9月には、同じ神智学者のバートラム・ケイトリーとその甥アーチボルド・ケイトリーのホランド・パークの家に引っ越した[211]。

ロンドンでは、シネットが運営するロッジに対抗して、ブラヴァツキー・ロッジを設立し、その会員の多くを流出させた[212] ロッジの会合は木曜日の夜にキーテル家の家で開かれ、ブラヴァツキーもそこで多くの訪問者を迎え、その中にはオカルト主義者で詩人のW・B・イェーツがいた[213] 1889年11月にはインドの弁護士モハンダス・ガンジーがキーテル家でバガヴァッド・ギータを学んでいると訪問されるようになった。1888年、ブラヴァツキーは神智学協会の秘教部を設立し、彼女の完全な管理下に置かれ、特定のテストに合格した者に入会を制限した。彼女はそれを超常現象を生み出す実験よりもむしろシステムの哲学に焦点を当てる「真の神智主義者」のための場所として特定した[215]。

出版

ブラヴァツキーはロンドンで雑誌を創刊し、そのタイトルを『ルシファー』とした。この神智学的出版物において、彼女は超常現象に関する主張を完全に無視し、代わりに哲学的思想の議論に焦点を当てようとした[216] ブラヴァツキーは『秘密教義』を書き上げ、それはキーテル家によって編集された[217]。 ブラヴァツキーは、約1,500ページの作品を出版してくれる商業出版社が見つからなかったため、神智学出版社を設立し、1888年10月に第1巻、1889年1月に第2巻が出版されることになった[218]。 ブラヴァツキーは、この本がチベット留学中に教わったセンザール語で書かれた宗教書『ドジャンの書』の解説書であると主張した[219]。仏教学者のデイヴィッド・レイグルは、ブラヴァツキーの『ドジャンの書』を第1巻として含む『キウテの書』がチベット仏教聖典のタントラ部であると主張した[220]。 [しかし、『秘密の教典』を調査した仏教学者の多くは、『ディザイアの書』などというテキストは存在せず、ブラヴァツキーの架空の創作であると結論付けている[221]。また、人間とその魂についての見解も述べており、死後の世界をめぐる問題を扱っている[222]。

Annie Besant

この2巻の本は社会改革者であるアニー・ベサントによって『ポール・モール・ガゼット』に書評され、それに感銘を受けたベサントはブラヴァツキーに会い、神智学者に加わった[223]。 1890年8月にブラヴァツキーはセントジョンズ・ウッドの19アベニューロードのベサントの大きな家に引っ越してきた[224]。

彼女はベサントをブラヴァツキー・ロッジの新しい代表に任命し[225]、1890年7月にベサントの家で神智学会の新しいヨーロッパ本部を発足させた[226]。 そこで彼女は、質問と対応する答えを含む本『神智学への鍵』を著した[227]。これに続いて『沈黙の声』という短い帰依文が出されたが、彼女は『黄金訓』というセンザールのテキストに基づいていると主張している。秘密の教典』と同様に、仏教の学者の多くは、この後者のテキストが本物のチベット仏教の文書であることを疑っている[228]。 米国の新聞『サン』は1890年7月に、協会の元メンバー、エリオット・クーズが提供した情報に基づいて記事を掲載し、彼女は不正行為の非難に直面し続けていた。ブラヴァツキーは新聞社を名誉毀損で訴え、彼らは1892年9月にその非難を公に撤回した[229]。

Personal life

1890年8月、ブラヴァツキーはセントジョンズウッドのアベニューロード19番地にあるベサントの大きな家に引っ越してきた[224]。

彼女はベサントをブラヴァツキー・ロッジの新しい代表に任命し[225]、1890年7月にベサントの家で神智学会の新しいヨーロッパ本部を発足させた[226]。 そこで彼女は、質問と対応する答えを含む本『神智学への鍵』を著した[227]。これに続いて『沈黙の声』という短い帰依文が出されたが、彼女は『黄金訓』というセンザールのテキストに基づいていると主張している。秘密の教典』と同様に、仏教の学者の多くは、この後者のテキストが本物のチベット仏教の文書であることを疑っている[228]。 米国の新聞『サン』は、1890年7月に協会の元メンバー、エリオット・クーズが提供した情報に基づいて記事を掲載し、彼女は不正行為の非難に直面し続けていた。ブラヴァツキーは新聞社を名誉毀損で訴え、彼らは1892年9月にその非難を公に撤回した[229]。

社会的・政治的信念

ゴドウィンは、ブラヴァツキーのライフワークが「精神的であるだけでなく、社会的に理想主義的であり、激しく政治的」であると示唆した[258]。 彼は彼女の「感情の燃料」が部分的に「抑圧に対する憎悪」であるとし、それはキリスト教の知的支配やインドにおけるイギリスの植民地支配を通じてであるとゴドウィンは主張している。 258] 反対にミードがブラヴァツキーを「基本的に政治的ではない人間」であると考えていた[259]。

ブラヴァツキーの社会的・政治的信念は、彼女の人生における他の多くのことと同様に、常に一貫しているわけではないが、彼女がより大きなビジョンを明らかにできると感じたものを反映している。それは何よりも、根源的な人種の継承に関するビジョンであった。この種族は、文化的、生理学的に柔軟なカテゴリーであり、歴史の中で種族が組み合わされることもしばしばであった。さらに、最近の進化をめぐる険しい議論に触発されて、ダイナミックな創発的勢力でもある。ゲイリー・ラックマンは、"歴史家はほとんど指摘していないが、ブラヴァツキーは『イシス・アンヴェイルド』(1877年)の中で、宗教的ではなく、最初の主要な知的進化論批判を提示した。"と書いています。{Lachman 2012, 159-60}ブラヴァツキーは、ダーウィニズムが人間の肉体的進化を説明する一方で、霊性は別の発達パターンに従っているとした。

宗教学者のオラフ・ハマーは、ブラヴァツキーの著作が「まれに」「あからさまに人種差別的」であると指摘し[260]、彼女の反ユダヤ主義は「キリスト教の起源としてのユダヤ教の不幸な位置から派生しており」、「彼女がキリスト教に対して感じた激しい嫌悪感」について言及している[260]。 彼女は「ユダヤ教は、ファルクス崇拝のみによって構築されて、アジアにおける最新の信条の一つとなり、理論的にも自分以外のすべての人やものに対して嫌悪と悪意の宗教となりました」[261]と書き記している。

同時に、彼女はユダヤ教の神秘的な体系であるカバラを、その起源が歴史的なユダヤ教よりも古いものであると考えていたにもかかわらず、広範かつ高く評価して利用していたことにも注目しなければならない。ヘンリー・スティール・オルコットは『Old Diary Leaves, First series』の中で、30年間カバラを深く研究した「神秘的なヘブライ人医師」のことを語り、ブラヴァツキーと長い会話をして議論したが、彼の深い研究にもかかわらず、「彼女があるテキストに読み込んで、聖なる光でそれらを照らした真の意味を発見することはできなかった」と言っている、と伝えられている。{ヘンリー・スティール・オルコット『古い日記の葉』第一連。Adyar, Madras, India: Theosophical Publishing House, 1941, p.477}という一節がある。イシス・アンヴェイル』の一節で、ブラヴァツキーはユダヤ人を賞賛している。「また、ユダヤ人に彼らの父祖のために懺悔するよう強制してはならない...。極悪非道な迫害のもとで、彼らがいかに忠実かつ気高く先祖の信仰を守ってきたか...。ユダヤ人は実質的に団結している。彼らの意見の相違でさえも、彼らの結束を破壊することはない。" {ブラヴァツキー『イシス・アンヴェイル』第II巻。Wheaton, IL: Theosophical Publishing House, n 1972, p. 526} 。

キリスト教については、ローマ・カトリックと宣教師のプロテスタントに嫌悪感を抱いていた。一部のリベラルなプロテスタントとは良好な関係を保っていたが、本家本元の東方正教会についてはあまり批判していない。彼女は『解かれたイシス』の中で、イエスを「貧しく、無名のユダヤ人大工」であり「社会的礼儀作法の達人ではない」にもかかわらず、偉大な改革者となり、「崇高な倫理規範」を教え、また、パウロや他の初代教会の父たちと同様に「入門者」として、時代と場所に適した言葉で古代の知恵を教え、実践できる資格を持っていると高く評価している。{ブラヴァツキー『解き放たれたイシス』第2巻、148-50、562}。彼女はまた、初期キリスト教の有効な形式として認識されつつあるグノーシス主義を大いに好んで利用した[262]。

肉体的な人種について、彼女はアフリカ人、オーストラリアの原住民、南洋諸島の人々がヨーロッパ人より劣っていると書き、「人類の最低の標本(「狭脳」の野蛮な南洋諸島人、アフリカ人、オーストラリア人)の数千人は、人間として最初に生まれたときに、知性においてより有利な兄弟たちが持っていたように鍛えるべきカルマがなかった」と述べている[263]。 「263] 彼女はオーストラリアの原住民を「半分動物」と呼んだ[264]。彼女は『秘密の教典』の中で、「もし明日、ヨーロッパ大陸が消滅し、代わりに他の土地が再び出現し、アフリカの部族が分離して地球の表面に散らばるならば、約10万年後に文明的自然の大部分を形成するであろうのは彼らである...」と仮定している。このように、人類を優れた人種と劣った人種に分けるために与えられた理由は地に落ち、誤謬となる。" {ブラヴァツキー、『秘密の教典』第二巻。Adyar, Madras, India: Theosophical Publishing House, 1993, P. 425. ブラヴァツキーが亡くなる5年前の1886年に、神智学会の総会で、神智学会の三つの目的の第一として、"人種、信条、肌の色の区別のない、人類の普遍的同胞団の核を形成すること "が採択されました(1888年には人種、信条、肌の色の区別なく)。(1888年には、性別やカーストの区別なくが追加された){Philip S. Harris, ed., Theosophical Encyclopedia. Quezon City, Philippines, 2006, "Theosophical Society, Objects of the," 631-32}.

理論・教義

ミードによれば、ブラヴァツキーは自分の理論と教義を徐々に、断片的な方法で組み立てた。ブラヴァツキーは、これらの神智学の教義は彼女自身の発明ではなく、彼女が「マスター」または「マハトマ」と呼んだ秘密主義の霊的熟練者の兄弟団から受け取ったものだと主張した[266]。

神智学、マスターズ、そして "古代の叡智"
ブラヴァツキーは神智学協会の主要な理論家であり、その「教義的基礎」を確立する責任を負っていた[267]。 彼女の出版したテキストで述べられた考えは、協会とより広い神智学運動が出現した基礎を提供する[269]。 ブラヴァツキーの神智学の考えは一種のオカルティズムであった。ブラヴァツキーは、神智学の教えは、世界の様々な場所に住んでいるアデプトによって彼女に伝えられたと述べている[240]。

ブラヴァツキーの神智学の背後にある根本的な概念は、かつて世界中に存在し、ギリシャの哲学者プラトンや古代ヒンドゥー教の賢者といった様々な古代の人物に知られていた「古代の知恵の宗教」があるというものだった[271] ブラヴァツキーはこの古代の知恵の宗教を、宇宙のすべてが神の頭からの発露として識別される世界観であるヘルメス哲学と結びつけた[272] 世界の宗教はすべてこのオリジナルの世界信仰から発展したとブラヴァツキーは考えていた。 [273] ブラヴァツキーは、自分の神智学が、古代末期の新プラトン主義の哲学者たちの後継者であり、彼らはヘルメス哲学も受け入れていたと理解していた。 ブラヴァツキーは、ヨーロッパでのキリスト教化のために、この魔法の伝統はそこで失われたが、インドとアフリカでは修正された形で持続し、自己意識的に魔法の幻滅の物語を促進したと主張した[273]。 [274] その一方で、ブラヴァツキーは、神智学運動が「古代の知恵の宗教」を復活させることによって、それが世界中に広がり、既存の世界宗教を凌駕すると信じていた[272]。 したがって、これらの神智学の思想を人類にもたらすことによって、ブラヴァツキーは自分自身をメシア的人物であると見なしていた[245]。

グドリック=クラークによれば、神智学協会は「宇宙観、宇宙の大宇宙、霊的階層、仲介的存在、後者は人間の小宇宙の階層的概念と対応するものを含む精巧な哲学的建造物を広めた」[275] 公式には、協会は次の3つの目的に基づいていた。

人種、信条、性別、カースト、または肌の色の区別なく、人類の普遍的な同胞愛の核を形成すること。
比較宗教学、哲学、科学の研究を奨励すること。
説明のつかない自然の法則と人間の中に潜む力を調査すること[276]。
ワシントンはこれらの3つの教訓の目的が「科学、哲学、宗教のオカルト的な研究を通じて人間に潜在する力を発見すること(これは)、神の調和を予感させる-そしておそらくそうなる-社会の調和と平等への好ましい道となる」ことにつながると信じていた[277]。

ニューヨークに住んでいたとき、ブラヴァツキーは自分自身を「仏教徒」と呼んでいた[278]が、正式に仏教を受け入れたのはセイロンにいたときだけだった[279]。 しかし、ラックマンは彼女の仏教が「非常に奇抜で、[マックス]ミュラーなどの学者の仏教や一般の仏教徒のものとはほとんど関係がない」と述べている[171]。 [ブラヴァツキーは、釈迦はヴェーダの教えに戻ろうとしたのであり、したがって仏教は現代のヒンドゥー教よりも古代のバラモン教の正確な生き残りであると主張した[280]。 カトリックやプロテスタントに対して批判し、アジアにおけるそれらの成長に反対していたが、彼女は生涯を通じてロシア正教に対して非常に同情的であり続け「ロシア教会の信仰とは仏教さえ比較しない」とコメントしている[281]。

G・R・S・ミードは「彼女(ブラヴァツキー)の宇宙のすべての混沌の中で、二つのことがあらゆる気分でしっかりと立っていた-彼女の教師が存在したことと、彼女が騙していなかったことだ」と宣言している[282]。

ブラヴァツキーは汎神論者であり[285]、非人格的な神性の考えを強調し、神智学の神を「普遍的な神性原理、すべての根、すべてはそこから生じ、存在の大きなサイクルの終わりにはすべてがその中に吸収されるだろう」と言及した[266]。 彼女は、西洋世界におけるキリスト教の神についての考え方を否定し、それを「矛盾の束であり、論理的不可能性である」と記述している[268]。 「286] この宇宙論は、19世紀に科学的探究によって明らかにされた地質学と生物学的進化という科学的発見と共通性を示していた[286]。

ブラヴァツキーは『秘密の教義』の中で、時間の始まりには絶対的な無があったという信念を明確にした。この原初のエッセンスはその後、ディヤンチョハンと呼ばれる知的存在でもある7つの光線に分離し、これらの7つの光線はフォハットと呼ばれるエネルギーを使って宇宙を創造した[287][288] 地球が創造され、7つのラウンドを経て、それぞれで異なる生物が作られた[287][288]。

ブラヴァツキーは「根源人種」という考えを提唱し、それぞれが7つの亜人種に分けられた[289]。 ブラヴァツキーの宇宙観では、最初の根源人種は純粋な精神から創造され、「不滅の聖地」として知られる大陸に住んでいた[287][290] ハイパーボレア人として知られている第2の根源人種も純粋な精神から形成されて、北極に近い土地に住み、そこでは穏やかな気候であった[286][2]. 287] 第三の根源人種は、ブラヴァツキーが今日オーストラリアとラパ・ヌイとして生き残っていると主張したレムリア大陸に住んでいた[291][292] ブラヴァツキーは、地球の第四ラウンドの間、高位の存在が地球に降りてきて、人間の肉体の始まりが発達し男女が分離した、と主張した[289]。 [289] このとき、アトランティス大陸に住む第4の根源人種が現れ、彼らは肉体だけでなく、超能力と高度な技術を持っていた[293] 彼女は、アトランティス人の一部は巨人であり、イングランド南部のストーンヘンジなどの古代遺跡を建設し、「雌動物」と交尾してゴリラとチンパンジーが誕生したと主張した。 [289] アトランティス人は退廃的で、その権力と知識を乱用したため、アトランティスは海に沈んだが、様々なアトランティスが脱出し、エジプトとアメリカ大陸に新しい社会を作り上げた[289]。

289][294] 彼女は第5の民族が第6の民族に取って代わられると信じており、それは大乗仏教神話の人物である弥勒菩薩の到来によって告げられると考えた[295] さらに彼女は、人類が最終的に第7の民族に発展すると信じていた。 [289][296] ラクマンは、ブラヴァツキーの宇宙論的主張を文字通りの歴史記述として読むことによって、「私たちはそれに不利益を与えているかもしれない」と示唆し[289]、代わりに、それがブラヴァツキーが「現代のための新しい神話、あるいは巨大で幻想的なSF物語」として形成しようとした試みとして読むことができるとしている[289]。

ブラヴァツキーは、人間は神の閃光、アストラル流体体、肉体の3つの別々の部分から構成されていると教えた[297] 後にブラヴァツキーは人間と宇宙の分離を宣言した[298] ブラヴァツキーによれば、人間は7つの部分から構成されている。298] ブラヴァツキーは『解き放たれたイシス』の中で、人間が肉体の死の後に地球に輪廻転生することを否定していた[299]。 299] しかし、『秘密の教典』を著した時点で、彼女はこの問題に対する意見を変えたが、それはおそらくインドでの時間に影響されたのであろう[300] ここで彼女は、輪廻転生の法則はカルマによって支配されており、人類の最終目的は死と再生のサイクルからの魂の解放であると述べた[301]。 [ブラヴァツキーは『解き放たれたイシス』の中で、スピリチュアリズムは「啓示宗教と唯物論的哲学の間の妥協の最後の避難所を提供するだけ」であると書いている[302]。彼女は、狂信的な信者が「その不完全さに目をつぶっている」ことを認めながらも、そのような事実は「その現実性を疑う言い訳にはならない」と書き、スピリチュアリストの狂信は「それ自体が彼らの現象の真正性と可能性の証拠」であると断言している[303]。

グドリック=クラークは、ブラヴァツキーの宇宙論が、学者アントワーヌ・フェーヴルによって特定された西洋秘教の主要な特徴のうち、「(a)宇宙のすべての部分、大宇宙と小宇宙の間の対応関係、(b)複雑で複数、階層的で生気に満ちた全体としての生きた自然、(c)仲介霊、象徴、曼荼羅の形における想像力と仲介、(d)浄化と上昇による魂の変換の経験」の4つをすべて含んでいると指摘した。 "[304]


Reception

ブラヴァツキーは非常に論争の的となる人物であり[306]、彼女に対する態度は、一方は聖なる教祖として無批判に彼女を崇拝し、他方はチャラ男として彼女を完全に軽蔑するという両極端の陣営に典型的に分かれた[307]。ワシントンは、彼女が宣伝の仕方を知らずに宣伝したために、このように論争が生じたことを示唆した[308]。 ブラヴァツキーの信奉者はしばしば、彼女が受けた批判を、彼女の詐欺と偽りに対する反応ではなく、キリスト教体制と物質科学的懐疑論者の両方の既得権益を攻撃したことに起因するものとしようとする[308]。したがって、彼女に対する批判はすべて、「彼女の評判に対する中傷は恵みのしるしであり、すべての偉大な殉教者が負わなければならない聖痕」[309]という彼女の信奉者によってそっぽを向かれる。

様々な著者が彼女の著作の信憑性に疑問を呈し、古い秘教的な資料から多く盗用されているという証拠を挙げ、知恵の達人の存在という彼女の主張は全くの虚偽であると宣告し、彼女をチャラ男、偽媒、文字の偽造者として非難した[314][315]。彼女の支持者は非難のほとんどが文書化されていないと主張した。東洋文学者のアーサー・リリーは、著書『Madame Blavatsky and her Theosophy』の中で、ブラヴァツキーの著作の抜粋の隣に神秘的な著作の抜粋を並べた長いリストを発表し、彼女の大規模な盗作を明らかにしたとされる。また、リリーはマハトマ書簡を分析し、表現や綴りの特異性からブラヴァツキーが書いたと主張した[316][173]。伝統主義者のルネ・ゲノンは神智学の詳しい批判を書いており、ブラヴァツキーが得た知識はすべて、超能力者からではなく他の書籍から自然に得たものだと主張している[310][310] カール・ユングは彼女の仕事を猛烈に非難した。アゲハナンダ・バーラティは、彼女の著作を「おぞましいたわごとと、無意味な秘術の豊穣な発明の寄せ集め」だと断じた[310]。ミルチャ・エリアデは、彼女の精神進化論は、「まさに精神生活の反進化論的概念」である東洋の伝統の精神全体に矛盾していると示唆した[317]。 ブラヴァツキーの死後も、ジョン・ネヴィル・マスケリン[318]、ロバート・トッド・キャロル[319]、ジェームズ・ランディなどの懐疑主義者によって超常的現象を不正に演出したとして告発され続けた[320]。

宗教学研究者のマーク・ベヴィアによれば、ブラヴァツキーは「ヴィクトリア朝の科学と道徳の挑戦に対応するためにオカルトの伝統を適応させた」[321]。 歴史家のロナルド・ハットンはブラヴァツキーを「世紀の真の国際人」の一人として記述し、その考えは「かなりの人気」を獲得した[322]。 [322] 様々な伝記作家は、20世紀後半から21世紀初頭にかけて、ブラヴァツキーは一般大衆の間ではほとんど知られていなかったと指摘している[323]。 2006年に、学者のジェームズ・A・サンチは、それでも彼女が「現代の流行を生み出すあらゆる教祖と同じくらい今日でも目につき、19世紀で最も記憶に残る、革新的な秘教主義者としてとどまる可能性が最も高いと考えられる」ことを指摘した[324]。

超能力者ナンドール・フォドーは「彼女(ブラヴァツキー)の複雑な性格の研究において心理分析家がどのような結果を導き出すにせよ、彼女が驚くべき女性であったこと、そして彼女が確かに超能力を持っていたが、しかし彼女が常に目指していた奇跡的な偉業にはほど遠かったことは認めなければならない」と述べている[325] 主に学者である多くの作家が、ブラヴァツキーが時々意識状態の変化を語って、あるいは書いていたと示唆している[325][326][327]。 [325][326][327] G・R・S・ミードはブラヴァツキーについて、「彼女ほど自分を英雄視しようとする試みを嫌った者を私は知らない--彼女は精神的教師としての自分に対する敬意の表現に積極的に身体を震わせた。彼女は革命家の長所を持っていた」[252][a] ブラヴァツキーが驚くべき女性であると言ったもう一人は、かつての仲間で『神智学雑誌Lucifer 1887-1889』の発行人でもあったメイベル・コリンズ(Mabel Collins)である。彼女は神智学運動から離れた後、「彼女は私に一つの大きな教訓を与えてくれました。私は彼女から、人間がいかに愚かで、いかに『だまされやすい』か、いかに簡単におだてられ、集団でとらえられるかを学んだのです。彼女の同類に対する軽蔑は、彼女の素晴らしい繊細な指を除いては、彼女の他のすべてのものと同じ巨大な規模であった。他のすべてにおいて、彼女は大きな女性であった。弱者や信心深い者を支配する力、黒を白に見せる能力、大きな腰、旺盛な食欲、タバコへの確たる情熱、敵と思われる者に対する絶え間ない憎悪、生活上の便宜に対する無礼、短気、悪口の達人、仲間の知能に対する軽蔑は、私がこれまで一人の人間に含まれ得ると思っていたものより大きいものである。しかし、このように普通の善悪の基準に無頓着な生き物が、美徳や悪徳を持ちうるかどうかは、私にはわからない」[328][329]。

ブラヴァツキーは、レオ・トルストイに著書『沈黙の声』『七つの門』『二つの道』を贈った。トルストイは作品の中で神智学雑誌『Theosophischer Wegweiser』の口述を用いた[330]。 1903年2月12日の日記に「私は美しい神智学雑誌を読んでおり、私の理解との多くの共通点を見出す」と書いている[331]。

影響力

神智学運動
カルニツキーによれば、19世紀の神智学運動は、主にH.P.ブラヴァツキーが提供した鋭い洞察力と概念的なアイデアによって創造され、定義されたものであった。彼は「彼女のカリスマ的なリーダーシップと神智学の課題の妥協のない推進がなければ、運動がそのユニークな形態を獲得することはできなかったと思われる」と述べている[332] 1891年に彼女が死ぬまでに、彼女はロンドン、パリ、ニューヨーク、マドラに報道機関を持ち、ほぼ10万人を数えるコミュニティの代表として認められていた。 333] 彼女の著作はヨーロッパやアジアの幅広い言語で翻訳、出版されている[334]。

ブラヴァツキーの神智学は、スピリチュアリズムへの関心を、人類の精神的発展についての理解において進化論と宇宙論を含むより一貫した教義へと方向転換させた[335]。 さらに、西洋秘教の伝統的源泉を取り上げ、アジアの宗教から採用した用語で多くの考えを再掲することによってそれらを世界化させた。 [ブラヴァツキーの神智学は、性別の重要性を強調せず、女性が男性と同等の精神的リーダーシップを取ることを認めることによって、女性にアピールすることができ、伝統的なキリスト教で認められているよりも大きな役割を果たすことを可能にした[336]。

神智学はその創始以来、教義的な同化や分岐を通して、他の神秘的、哲学的、宗教的な運動の発展にも影響を与えた[337]。1920年代に神智学協会アディアは米国で約7000人の会員を抱えていた[338]。神智学の情報源によれば、2008年のインドのセクションは約13,000人のメンバーを持っていると言われ、一方、アメリカでは2008年のメンバーは約3,900人と報告されている[339]。

西洋密教

ブラヴァツキーの神智学は西洋秘教の「近代復興における主要な要因」を代表すると説明されている[340]。 ゴドウィンは西洋秘教の伝統の中でブラヴァツキーより「近代においてより重要な人物」は存在しないと考えた[244]。 ジョンソンはブラヴァツキーが「19世紀におけるオカルト復興における中心人物」であるとした[341]。 ブラヴァツキーが出版した神智学の思想、特に根源人種に関する思想は、ギド・フォン・リストとイェルク・ランツ・フォン・リーベンフェルスによって19世紀末から20世紀初頭のドイツとオーストリアで設立された秘教運動であるアリゾフィーへの影響として引用されている[342][331][343]。 343][344] ハンナ・ニューマンは、ブラヴァツキーの神智学的思想はアリオス教を通じて「ナチスのイデオロギーに貢献した」と述べている[345] にもかかわらず、ラックマンは、ブラヴァツキーはアリオス教が推進したいかなる反ユダヤ的、人種差別的思想にも責任を負うべきではないと主張しており、彼女が生きてアリオス教の発展を目撃していたら、おそらく人種に関するその考えを非難していただろうとコメントしている[346][345]...。 [ブラヴァツキーの根源的な人種に関する神智学の思想は、ルドルフ・シュタイナーが20世紀初頭のドイツで展開した秘教運動である人智学への影響としても引用されており、シュタイナーの人智学協会は神智学協会の「歴史的分校」と呼ばれている[348]。

ブラヴァツキーの神智学は、1970年代に西洋諸国で出現した秘教的な流れであるニューエイジ・ムーブメントへの影響として引用されている[349] 「単一の組織や運動が、神智学協会ほどニューエイジ・ムーブメントに多くの構成要素を貢献したことはない。... それは20世紀の西洋におけるオカルト文献の普及における主要な力であった」[350][b] 神智学のテキストや教義に緩く基づいた他の組織には、アグニ・ヨーガ、およびアセンデッド・マスターの教えと呼ばれる神智学に基づいた宗教のグループが含まれる:「I AM」活動、自由への橋、ユニバーサル・メディスン、頂上の灯台、これは普遍と勝利の教会に発展した[352]。

言語学

アメリカの宗教学者Jason Josephson-Stormは、ブラヴァツキーと彼女の神智学協会が19世紀後半から20世紀初頭の学術言語学に影響を与えたと論じている。ブラヴァツキーの言語理論や類型論はヨーロッパで広く流布し、エミール・ルイ・ブルヌフやベンジャミン・リー・ウォルフなどの影響力のある言語学者が、神智学協会の推進する神智学を実践し、その教義を公的に擁護したと述べている[353]。 [フェルディナン・ド・ソシュールも交霊会に参加し、『Cours de linguistique générale』の中で言語学とインドに関する神智学の主張「la théosophie brahmanique (Brahamanic Theosophy)」を長々と分析したことが知られている[354]。

南アジアの宗教と政治
編集
ブラヴァツキーは、ヒンズー教徒に自らの宗教的ルーツを尊重するようインスピレーションを与えたとして引用されている[355] 神智学協会はインドの民族意識の成長に影響を与え、インド独立運動の著名人、中でもモハンダス・ガンジーとジャワハルラール・ネルーは神智学から自らの民族遺産を研究するインスピレーションを受けている。 [ブラヴァツキーとオルコットは、アナガリカ・ダルマパラのセイロンにおける上座部仏教の復興に参加した[358][359]。

ミードは、「他のどの個人よりも」、ブラヴァツキーは東洋の宗教と哲学の知識を西洋にもたらした責任があると述べた[355]。ブラヴァツキーは、インドの宗教が当時西洋人が直面していた問題に対する答えを提供すると信じていた。特に彼女は、インドの宗教にはダーウィンの進化論を補完する進化の宇宙観があり、インドの輪廻の教義は19世紀西洋人が夢中になった代償と永遠の呪いを取り巻く道徳の問題の多くに対応していると考えていた[360]。 [ハットンは、ブラヴァツキーの運動の2つの最大の成果は、輪廻転生への信仰と唯一の神聖な世界の魂への信仰を西洋に普及させたことであると考えた[361]。

ブラヴァツキーは「東洋の宗教の教義の多くを自分のオカルティズムに取り入れ、自分のオカルティズムの光の中で東洋の宗教を解釈した」のであり、そうすることによって、ロマン派の詩を通してすでに一般化されていた「神秘的東洋」の見方を拡大した[362]。マックス・ミュラーはブラヴァツキーの密教を痛烈に批判した。彼は、少なくともそのキャリアの初期においては、彼女の善良な動機を評価しようとしたが、彼の見解では、その後の「ヒステリックな著作とパフォーマンス」によって、彼女は自分自身にも他人にも誠実でなくなってしまったのである。仏教には難解なものや秘密めいたものは何もない。密教であるものは事実上ブッダの教えではなく、ブッダの教えであるものは事実上密教ではない」[363][c] ブラヴァツキーは、「他人に騙されたか、自分の想像に流されたかのいずれかである」とミュラーには思えた。 「ブラヴァツキーは、インドの宗教を誤って伝えていると非難するインドの学術専門家たちに対して、彼らはヒンドゥー教と仏教の外秘的な性質しか理解しておらず、彼女が古代ヴェーダに遡るこれらの信仰の内秘的な秘密は理解していないと主張して反論している[365]。

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あとがき
ブラヴァツキー夫人、自動訳しながら斜め読みしただけでも地球が狭い感じ著しい。たぶんこの方のスタンスが元々「どこどこに呼ばれたの〜」と言っては世界各地に飛び回るスタイルだったんじゃないでしょうか。
それを後の接点ある方々がスタイル受け継いで、今のニューエイジ、幸度高いアメリカンスタイルのスピリチュアルに通じているとかありそうに思いました。とにかく異常に天地が多すぎます。天王星がこの位置でそんなに増えるものなんだ…という再発見を含めて。

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