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お母さん、あのさ

「お母さん変わるから」

そう言いながら伸びてきた手を、私は小学生のように泣きじゃくりながら振り解いた。視界の隅では、従姉妹二人が真剣な顔をして突っ立っていた。

母の向こう側には会議室にあるような長い机があって、そこにポツンと母の兄が座っていた。そして、少し離れたところに、岡山から祖母のお葬式に足を運んでくれた親戚が一人、座っていた。

私はこの空間で、「おばあちゃん、こんなところを見せてしまってごめん」と思える余裕を持ち合わせていなくて、後にこの時の罪悪感に苛まれることとなった。

私は、小さい時から父にべったりで、父が出張へ行く時はこの世の終わりかのように泣いていた。私が小学校に入ってからは、母と一緒に出かけた記憶は一つもなく、休みの日は父と公園に行くか、祖父母の家へ預けられていた。

母以外の人たちと過ごした時間を、車で迎えに来た母に後部座席から必死に話した。「それでな」「まあちゃんさ、」主語はいつも自分で、とにかく母の後頭部へ向かって、言葉を投げかけた。

母はいつも右手でハンドルを握りながら、左手で髪の毛を触っていた。

「うん」と返ってくることはあまりなくて、私はどうしたら、「そんなことあったん?」と、興味を持ってくれるのだろうと考えていた。

小さい頃の母との思い出というのは、こんなふうに、母の眼ではなくて、茶色い髪の毛で埋め尽くされている。

母はどんな顔をしていたのだろう。
母の眼はどんな表情をしていたのだろう。


自宅に帰ると母は、キッチンに置いてある椅子に座って焼酎を作り、煙草を吸い始める。正確には椅子ではなく、花火の詰め合わせが入っていた大きな缶のようなものを椅子にして座っていた。

母は、いいちこという名の焼酎を毎日飲んでいて、ピアニッシモという名の煙草を吸っていて、小さいながらに私は母の好きなものを全て覚えることに成功していた。


静かで、歪んで

テレビの前に置かれた小さなテーブルを、3人で囲んで私たちはご飯食べていた。

テレビから賑やかな音が聞こえてくる。けれど、母も父も話さないし、笑わない。私はそんな歪な空間を破るかのように、大きな声で学校の話をした。

けれど、そんな役目を背負うために生まれてきたわけじゃないって本当は心のどこかで思っていた。右には父親、左斜め前には母親がいて、私は真ん中にいながら、この家の中でずっと、一人ぼっちだった。けれど、それをずっと認めたくなくて、”まあや”という名を付けられ、この世に生まれてきたからには、二人にとっての大切な存在なのだと自分に言い聞かせていた。

母は少しのおかずだけを食べたらすぐにキッチンへ戻って、大きな声で独り言を言い始める。カチャカチャと錠剤の薬を用意する音が聞こえる。

私は、ぼーっと目の前のテレビを”見る”という作業に必死で、母は、疲れ切った心を休めるのに必死で、隣にいる父は何もしないということに必死だった。


私の脳内から消えない一つの晩御飯があって、それは、ピーマンの肉詰めなんだ。

小学三年生のある日、胃が気持ち悪くて机に突っ伏していた。時は過ぎていき、給食当番である私は、1階に給食を取りに行かなければならなくて、なんとか、下まで歩けたものの、給食のおばさんの話を聞いているその間に、吐いてしまった。


そのまま保健室に行き、ベッドの中でじっと天井を見つめていた。”何もしない”時間を初めて経験しながら。

先に保健室に来ていた女の子がこう言った。
「後で担任の先生に報告する時、ちょっと熱とか大袈裟に言ったら早退できるで」

私は、「そうなん?ありがとう」と言いながら、嘘をつくメリットはあるのかなんてことを小学三年生の頭をフル回転させながら考えていた。

この時私の頭の中に思い浮かんだことはたった一つ、具合が悪いけど学校を頑張った自分として帰宅すれば、母は褒めてくれるかもしれないということだった。


後に、保健室に足を運んでくれた担任に具合を聞かれ、「熱は微熱やけど、気分はさっきよりも悪くなっていってる感じがします」なんて曖昧な嘘を伝えた。

「お母さんに電話しておくけど、迎えに来てもらう?どうする?」

想定外の質問に私はテンパりながらも、「あ、仕事だと思うので大丈夫です、家まではひとりで帰れます」と、答えた。


そして、その日の晩御飯はピーマンの肉詰めだった。
私はいつも通り、真ん中に位置しながら、「今日めっちゃ気分悪くなってな、」と、陽気に話をし始める。

でも、学校も頑張ったし、こうやって晩御飯も残さずに食べられるよって言いたくて、見せたくて、褒められたかったから。


給食の時と同じように胃がキリキリと痛み始め、トイレへと駆け込む。

そして、私はその日二度目となる嘔吐をした。

こんな時も私の頭の中は馬鹿みたいに母のことだけを考えていて、滅多に吐くことなんてないから、今日は話を聞いてくれたり、優しくして貰える気がするという期待をトイレの中で膨らませながら、

「お母さん、ちょっときて!」

そうリビングに向かって呼びかけた。

私はこの時の母の顔をよく覚えている。
トイレの前で座り込む私を、じっと真顔で見下ろし、めんどくさそうにこう言った。

「さっさと戻ってご飯食べなさい」


私は、この日のピーマンの肉詰めをちゃんと完食し、そしてこの日から学校でのことを一切話さなくなったのだった。


やっと、

中学に入ると、ドラマに出てくるかのような学校でのカースト制度に苦しめられ、私は、住んでいるマンションの最上階へと向かう。

少し身を乗り出して下を覗き、「怖い」というありきたりな感想を抱いた。

タッタッタと足音が聞こえてくる。
父だ、と気づき反対の階段から降りる。

そんな二人だけの鬼ごっこを、とある冬の日にしていた。

裸足のまま家を出てきた私は、着ていたグレーのスウェットをぐっと踵まで伸ばし、気休め程度に寒さを凌ぎながら、30分後くらいに父に見つかったのだった。

母とは違って、父との思い出というのは、こんなふうに優しく追いかけてもらった瞬間ばかりが私の脳内で上手く切り取られている。


陽キャだとか陰キャだとかくだらない枠組みの中で闘って、疲弊した私の心はきっと表情にも滲み出ていて、それがまた、母の怒りを引き出す材料になっていたりした。

「出て行け」

なんてことを言われた時は、有り難かった。
あゝ私、やっと死ねる、そう思った。


結局、10階にも満たないところからの景色で怖気ついたけれど。

父と家に戻った時、ドアを開けた母は、あのピーマンの肉詰めを食べた日と同じ顔をしていた。


もう戻れない

高校生になると、父はあまり家に帰ってこなくなって、晩御飯を一人で食べるようになった。

私は、シャワーを浴びた後、髪の毛を乾かさずにそのまま20時に就寝する、そんな生活を送っていた。

家では何者にもなれていなくても、何もすることがなくても、高校ではそれなりに、部活に励み、それなりに友達ができていた。

それで良いと思っていた。
それぞれの人生があって、それぞれの家庭があって、きっと私だけじゃない、私だけがこうやって孤独を抱えているわけじゃないって思いながら、生きていたんだ。


物心がついた時から部屋のドアを壊され、言動を全て監視されても、ゴミ箱も財布の中身も常に見られていても、そういう歪な母からの愛を体で受け取りながら、私は、”そういうものだ”って思うようにしていた。この世界はこんなふうに、子どもが親に逆らえない仕組みの元、まわっているんだって。


だから私は、「もっと愛されたい」と口にしたことがなかった。
本当は寂しかったくせに、
本当は話を聞いてもらいたかったくせに、
本当は、母と二人で色んな時間を過ごしたかったくせに、


そのくせに、
母の日なんかに、「お母さん、いつもありがとう」なんて思ってもないようなことを言葉にして伝えていた。


こうやって、どんどん私は戻れなくなっていった。


ぬるい

大学に入る頃には、少し母が穏やかになっていった。

私はバイトで帰りが遅く、帰る頃には母は寝ているし、朝も数十分しか顔を合わせない。だから、今までのように怒鳴り散らかされたりする機会が無くなっていった。

私が中国へ留学する時、関西空港まで見送ってくれた母は泣いていた。

新しいスタートに期待を膨らませる中、私はそんな母の泣き顔を見て、「うざいんだよ、そういうの」と思ったし、同時に、「ずるい」そう思った。


私は、
私はずっとあの家で一人ぼっちで泣いてきたし、
どんな話も聞いてもらえなかった。

なのに、なんで?

なんで母はこうやっていとも簡単に私に感情をぶつけることができるのだろう?
寂しいから泣いて、
私がいない生活を想像して引き留めて、

なんで?

それが愛だなんて、認めてあげない。

そんな気持ちと共に、中国へと旅立った。

ここからまた母は情緒不安定になり、電話をかけてきては、泣き叫んだり、怒鳴ったりしていた。

でもこの時の私はもう、母と過ごしてきたあの世界にはいなかった。
中国のジムで汗をかいた後に、受付のテーブルでアフガニスタン人の友達と話しながら、スマホを耳に当て、適当な相槌を打っていた。

やっと“どうでもいい”という感情に辿り着いた。
今まで、怒っていたら、笑って欲しかったし、泣いていたらなんとかしてあげたかった。けれど、私は母と生きながら、自分の役目は黙って座っているだけの人形であることだと気付かされて、自我を持った今の私に母の為にできることなんて一つもないのだとわかったから。


必死なフリ

祖父母が他界した年、皆が懸命に”色々なこと”をしていた。

祖父が入院したのをきっかけに、祖母を家に一人にはしておけないということで施設へ入る手続きをしたり、コロナが始まった年で、面会にも行けないという事実に、皆が悲しみ、そういった騒がしさのようなものを私はただ冷静に傍観していた。

中学生だったあの日、やっとこれで死ねるって思った時のように、このままこうやって身内が他界して行って、ついでに母とも、親戚とも流れに身を任せてバラバラになっていくことができたら、私はやっと解放されるのかもしれないなんてことを思っていた。


そして、心の中で考えていたことが見透かされかのような出来事が起こったのが、祖母が亡くなった日だった。

祖父は先にあの世へと旅立ち、追いかけるように祖母も旅立った日。

母は、家で泣きながら、シャワーを浴びるに私にひたすら暴言を投げかけていた。

「お前はもう明日の葬式絶対くるな」

ちょうど、私が風呂場のドアを開けた時こう言われ、

「わかったんか?返事しろや」

そんな言葉で追い討ちをかけられる中、私は、やっとこの日が来た、そう思ったんだ。

酒を飲み、酔っ払ったまま寝た母のいびきを確認してから、中国へも持って行ったピンクのキャリーケースを引きずって私は家を出た。


見栄

次の日は案の定、母からも、従姉妹からも着信と、LINEが来ていた。

「お母さんが悪かった、ごめんな」

そんな文章が目に入った瞬間、私はLINEをブロックして、一人で神戸の街を歩いていた。

私はこの時歩いた神戸の景色を一生忘れないだろうと思う。一人ぼっちって悪くない、そう思えるようなそんな空の色をしていた。

結局、従姉妹二人が迎えに来てくれて、祖母のお葬式に出席することとなった。


一通りの事が終わった後、


「お母さん変わるから」

母はそう言って、私のほうに一歩近づいてきた。

「今日は一緒に家帰るやろ?」
「お母さんが悪かった、ごめんな?」

また一歩と、近づく距離。
伸ばされる手。

私は小学生のように泣きじゃくりながらそれを振り解いた。

思ってもないくせに、
変わるって何をどう変えるん?
何十年と変わってないものをどうやって変えるん?
私が何が嫌やったかもわかってないくせに、

どうせ、どうせ、

そうやって、私の腹の中が怒りで燃えていく。

チラッと母の顔を見た時、私は全てを悟った。


どうせまたこの子のいっときの感情やから謝っといたら帰ってくるやろ

そう、母の表情が言っていた。


距離

この日を境に私は、”許さない”という感情がどんどん大きくなっていった。

許さない、あの日のことを、
許してなんかやらない、今までのことを。

23歳といういい歳になりながらも、母と娘という関係に苦しんでいた。

そして、私はとにかく遠くへ行きたくて、離れたくて、引っ越しをした。


見られていない、
強要されない、
好きな分だけご飯を食べられる、

そんな初めての経験が心地良かった。

母との距離が初めてゼロ以上になった瞬間だった。

けれどこの時、私はあらゆるものから現実逃避をしていて、母からも親戚からも逃げるように九州へ行き、一周忌なんかにも顔を出さずにいた。


母が一人で暮らす実家に顔を見せにいくのは数年後になるのだが、それまで私と母は人生で初めて、”今日あったこと”を文章で交わすことができていた。


今まで一度も叶わなかったコミュニケーションが取れるようになったことに、私は感動したりして。


ごめん

久しぶりに帰った実家でソファに座りながら、私は確か自分の動画の編集でもしていたのだと思う。

左斜め後ろにキッチンがあり、そこから母が食材を切る音が聞こえてくる。

そんな何気ない空間で、

「まあや、産んでごめんな」

そう、母が呟いた。
私は、平然を装いながら、「何が」と、振り返らずに答えた。

「毒親やな、お母さん」
「お母さん、そんな言葉知ってるん?」そう言って私は笑って見せた。
「親ガチャってやつやろ?」
「いや、だからなんでそんな言葉知ってるん」

「知ってるよ、あんたが載せてるやつお母さん見たから」

そう、母は言った。
私はそれが動画なのか、このnoteなのか、母は一体私のどのSNSのどんな言葉を見たのだろうと想像を巡らせた。


「お母さん、おばあちゃんに虐待されとったから、あんたの愛し方がわからへんかってん、ごめんな」

私はこの時、目の前のipadの画面を眺めているフリをしながら、ポロポロと涙を流していた。”ずるい”っていう感情をいっぱいに抱えながら。



私、もう違う人生を歩んでいるからこれでいいって思っていた。許せないけど、それでいいって。だけどこんなふうに、母によって美化されようとしている”愛されなかった”過去を目の前にして、一気にどうしたらいいのか分からなくなってしまった。


あのね、


私、お母さんを愛しているよ。

「今は許せない」
「今は感謝とかできない」

そういう時期を通り過ぎてね、

今、ちゃんと、愛していると心の底から思うことができるよ。

過去の出来事をね、私もお母さんも、傷つきながらよく頑張ったねって今は思えるんだ。

お母さんがいつか死んでしまったら悲しいって、本当に思うよ。
そんなことを考えずに過ごしたいとも思う。

過去にできなかったことを全て、二人でまた一からやり遂げたいっていうエゴも生まれたりする。


私ね、なんて悲しい親子なんだろうって思いながら生きてきたんだ。
つらい思いをしてきたなら、言ってくれたらよかったのにって思ったし、
おばあちゃんやおじいちゃんにお母さんが苦しめられてきた道を辿るように、私たちもまた苦しんで、

馬鹿みたいだなって。

なんで同じ遺伝子が入っているのに、こんなにも分かり合うことが難しいのだろうって。

なんで親子なのに、愛し合うということが簡単にできないのだろうって。

なんで一番近くにいる人の全てが、分からないのだろうって。


私がもし、お母さんにあげられるものがあるとしたらね、それはきっと、”記憶”なんだ。嫌なことだけじゃなくてね、お母さんに関する全てのことを、この頭が、体が覚えているよ。

きっと、お父さんも、おばあちゃんも、おじいちゃんも知らないお母さんのことを、私だけが覚えている。

お母さんに好かれたくて必死だったから。


小さな私の世界の全ては、お母さんだったよ。
今は私の世界には色んな人がいるけどね、みんなと同じようにお母さんが大切なんだ。


「ありがとう」


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