【映画評】 中村佑子監督『あえかなる部屋、内藤礼と、光たち』
1)終わりの始まり
ドキュメンタリーを製作する監督の思考はどのようにあるのか、いつも不思議に思う。フィクションならば始まりと終わりがある。それがとりあえずのものであったとしても始まりがなければフィクションは成り立たないし、終わりも然りであるから、それらは明確にある。だが、すでに〈在った/在る〉ものを対象とするドキュメンタリーに始まりと終わりはあるのか。私という生は既に在りこれからも在るのだから、そこに始まりと終わりを設定するのは在るという事態に切断を施すように残酷な行為のよう