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3.11

今日は3月11日。
あなたは、あの時何をして過ごしていたのでしょう?
私は中学3年生で、その時は体育館に居た。ただでは済まない予感がする揺れ方に、生まれて初めて地震に対する強い恐怖を感じた。

バスや電車もとまってしまい、徒歩で帰路について、自宅のテレビを見ると、この大きな地震の震源は東北ということを知った。東京でこんなに大きな揺れなのだから、現地はどれだけ揺れたのか...。
更に、この地震の最大の悲劇は「津波」がついてきたことだった。
寒かったろう...暗かっただろう...怖かっただろう...。

受け入れ難い話だが、震災前、訪れた中学の修学旅行時の釜石のホームステイ先の家族の方とは震災以降今も連絡がついていない。

丁度、私にとって父親のような存在であった祖父の余命を聞かされた時期と重なっていたため、日増しで増えていく津波に攫われて亡くなって行った死亡者数の一つ一つの魂のことを、決して他人事と思えなかった。
計画停電の中、何もできずに自宅で息を潜めて過ごす日々。
自分の無力さを知り、物凄くいたたまれなかった。
こんな時に、人を助け、役に立つ、見過ごさない大人になりたいと強く思ったのもこの時。

自然は人を優しく包む。だけど、人の命を奪う厳しさも持ち合わせている。山間で育った私はそんな摂理を知っていながらも、やはり一つ一つの魂の行く先を受け入れるには時間がかかった。
高校生になり、震災から1年経った気仙沼へ、これまた修学旅行で足を運ぶことになった。津波で日常の一切合切を呑み込まれてしまい、大きな漁船が海から1km離れた場所で転覆して留まる様子を見て、自分の心を保つことが難しかった。更に、唯一残された家の土台と、濁流の勢いに耐え抜いてそこに残ったスプーンを見て、大切な人とただ暮らす事のかけがえのなさを痛感した。高校生の私は、呆然としてしまって、暫くそこから立ち上がれなかった。ただ、その場所に生きる人たちは強かった。「失ったものは数えきれない。それでも、残されたものを、あるものを数えて前を向いて生きていく。」色んな気持ちの日があると思うが、そんな言葉を若者にくれた気仙沼の水産加工業に従事する女性の言葉を忘れられない。私が次に立ち上がった時には、心の神様がその時既に動いてしまっていた。微力ながらも、私も沢山のお金を集めてやれることがあると思い、試行錯誤しながら10万円を2日間で集めたことは、今考えたらめちゃくちゃ可愛い範囲内のことだが、大きな一歩だった。

あの時思ったことは、善意は人を救うけど、やはりお金も人を救うために、物凄く大切だということ。
誰かを継続的に助くために、マネタイズは必要で、持続可能な方法は絶対に必要だということ。

あの時の思いがあるから、今の自分がある。
彼女たちのために何が出来たのか、自分の無力さに未だに苛まされるが、今日はただただ静かに追悼の意を天に捧げようと思う。

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