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いのち(2024 ver.)

※全部個人の主観に基づく意見です。

曲を聴いたら居てもたってもいられず感想を書きたかったのですが、Twitterは140字くらいしか書けなくて困っていたところになんかnoteがあったのでここに書きます。
4/30の0時に曲を聴いてから書き始めて書いてたら4時になってました。は?
私は気の利いた考察は出来ないので、非の打ち所がない完成された推論の結晶を求めてる人はそういう文章を読みに行くといいと思います。
おつあずき。


前提知識:「いのち」と「いのち(2024 ver.)」

「いのち」は2019年04月30日にリリースされた、AZKiの曲だ。
Vsingerとして活動していたAZKiにとって、バーチャルな存在にとっての”いのち”とは何かを考えさせられる曲。
感情を揺さぶる歌声が開拓者を筆頭にホロリスやホロメンにも人気で、まさしく彼女の代表曲の一つと言って過言はないだろう。

てか、曲の意味については私がどうこう言ってる文を読むよりは公式のセルフライナーノーツを呼んだ方が早い。

さて、そこから5年の月日が流れた本日2024年4月30日、その「いのち」の新版がリリースされた。何がどう新しくなったか簡単に言うとリアレンジと歌詞のオーバーライト(上書き)だ。MVも公開される(予定(これを書いてる2024年4月30日午前4時くらい時点で))

感想と考察

は~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
良!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
エモ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
あずきちすき!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
終わり!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!



馬鹿野郎。
目先の定型文に甘えて言語化から逃げるな。はい。。。
というわけで、気になった点を順に挙げていきます。
好きないのち(2024 ver.)発表ドラゴンになるか…。
※全ての歌詞に言及しているわけではないです。
※歌詞は頑張って聴きとったり有志の方のをお借りしているので、変換含め多少の間違いはあるかもしれないのをご承知おきください。
※文中ではオリジナルの「いのち」を旧版、「いのち(2024 ver.)」を新版と呼ぶことにします。

1A①

息をしている だから生きている
何度もずっと 言葉を尽くしてきたんだ

これまで何度も言葉を尽くして、歌を紡いできたAZKiちゃんが生きていることは「当然のこと 誰も疑わないの」とすら言うまでもない事実になったんだなと感じた。歌が沢山の人の心に届き、多くの人の記憶に残る存在になったんだなって思うと涙腺がヤバすぎる。

言葉を尽くすことが自己のいのちの証明であり、補強である。
AZKiちゃんは5年という(バーチャルの身としては)長い歳月を経て、その存在を確立してきたことと捉えてよいだろう。

1A②

息をしている ように見えている
青が染み出す 私にとっての何か

AZKiちゃんのイメージカラーはご存じの通り、インナーカラーのようなピンクだ。では、”青”とは…?
イノナカのこと好き好き侍としては「この歌詞、すいちゃんのことだ…!!」と言いたくなるが、もちろんそんなはずはなく。
(20240501追記:青といえばそらちゃんの可能性もある。ないか。)
AZKiちゃんで青といえばそう、「青い夢」だ。

活動の中で本音と建前、理想と正論の中でもがき苦しみ、最後には前を向いて歩き出す曲だ。(と思ってる)
ここでいう青いとは「青二才」のような「経験が浅く、現実を見ずに理想を思い描いている」くらいの意味だ。(と思ってる)

ここで、いのちの歌詞に戻ろう。「青が染み出す」とは「未だに理想を追い求めている」「(建前がどうあれ)本当は理想を諦めきれずにいる(それが隠し切れずにいのちに染み出しているor染み出すほどに想いが強くなっている)」という感じだろうか。

この5年間で変わったこともあるが、変わらないこともあったはずだ。
例えば、活動を始めた頃に抱いていた音楽に対する想いや活動の目標、方針、。それがいのちの根底に存在していたからこそ、ここまで活動が続いたのかもしれない。

1B

鼓動がドクドクしている
ここはいつも変わらずに 急かし続ける
ボタン一つのいのち

ここは普通に文字通りの意味である。前の節と合わせるならば「理想を追い求めて生き急いでいる」といった感じだろう。

ほんまか?

違うような気がするため、ここで新たな視点を提唱する。
考えすぎ?それ褒め言葉ね。
キーは「ボタンひとつ」。配信者でボタンといえばCh登録やフォローのボタンが思い浮かぶだろう。他にも再生ボタンとか、高評価のボタンとか。そこから解釈を広げて、「いのち≒配信(あるいは活動)」という説を提唱する。たまには私も提唱者になってみたいのだ。
そうすると「急かし続ける=ファンの期待に応えようとする」なのではないだろうか?と考えた。
というかnoteの構成上叙述を変えているが、最初に聴いた時こっちが思い浮かんだ。
「ファンの期待に応える」なんて書くのは簡単だが、実際は相当なプレッシャーが伴うだろうことは想像に易い。すなわち、そのようなプレッシャーを抱えながら生きてきたということなんだろうなと思った。
でも旧版でこの解釈は出来ないので違うような気もする。
配信で語られたらいいね。

1サビ

ここが一番震えた。有り体に言うと刺さった。
旧版の歌詞は以下だ。

本当のとこどうなの? 恋と推しは違うんでしょ?
君が忘れちゃったら 私は居なくなるの

旧版では”恋”と”推し”の違いに言及している。ここでは恋は現実世界の恋愛を指し、推しとはいわゆるアイドルや活動者の応援を指していると推測する。しかし時代は変遷し、「推し活」などという謳い文句を企業側から積極的に提唱する時代になり、ガチ恋だのという者も少なくはない。
ここで言いたいのは「推し活」が5年前よりは市民権を得つつあるということだ。つまり、現実の恋をしたら忘れてしまう時代から画面の中の誰かに恋をする時代に変わったことに合わせて歌詞が変わったのだと考えた。
そこで新版の歌詞である。

本当のとこどうなの? いずれは卒業するんでしょ?
日常に戻ったら 私は居なくなるの

特に刺さったのは「いづれは卒業するんでしょ?」の部分。
アイドルや配信者、あるいは何かの趣味やオタク的コンテンツに少しでも足を踏み入れたことのある人間ならば、あるんじゃないか?何か熱狂的にハマっていた事物に対して急激に熱が冷めて離れてしまった経験が。或いは、そういう人を見てきた経験が。
私は、ある。もう滅茶苦茶にある。ありすぎてアリストテレスになるかと思った。
そんな”離れてしまった人”、一緒に見ていたはずの命のような夢から覚めて日常に戻った人からすると、もっと踏み込んで言うとAZKiちゃんを追わなくなった人からすると、AZKiちゃんが活動していようがしていまいが関係なく”居ないも同然”なのである。

や、そうなんだよな…このご時世、情報を入手するのも遮断するのも簡単で、遮断した情報は能動的に動かないと手に入らない。
辞めたコンテンツとか辞めたこと自体を覚えてればまだ糸口は残されてるけど、存在自体を忘れちゃったらもうそれは私の中にはいないんですよね。もちろんふとしたきっかけで思い出すこともありますが。

この後の「またね バイバイ。」は離れてしまった人への別れの言葉で、割と淡々としている印象を受けた。このような別れに惜しまないほどに、出会いと別れを繰り返してきたのかもしれない、と思った。

2024/05/01 追記:考え方がオタクすぎた。他人の感想を目にするまで気づかなかった。卒業に関連するワードは一般にファンじゃなくてアイドルの方じゃないか。ということはやはり別の構図とも捉えられる。
つまり、「ファンが去ってしまったらファンの中でそのコンテンツはないもの同然になる」という意味と「推しが画面の外に行ってしまったら、ファンとしての自分自身は居なくなってしまう」という意味があると考えられる。
これは後にも出てくる「双方向性」ということだろう。
因みに2024/04/30の振り返り配信内でAZKiちゃんは「共依存」という表現を使っていた。どうやら現代に伝説としてその存在が語り継がれている某カエル氏の言葉の引用らしい。なるほど、言い得て妙である。というかセルフライナーノーツに最初から”ポジティブな共依存”というワードが書いてあったじゃないか。

2A①

息をしている だから生きている
見た目と中身の境界線をまたいで戻って

これはそのまま、3度衣装が変わっているAZKiちゃんだからこその歌詞だなぁと思った。

2B

鼓動がドクドクしている
ここはいつも変わらずに 巡り続ける
気分次第のいのち

そのままの意味で捉えるならば血の循環だ。脈動で自身の生を感じている。だがそうではないと考えた。
そう、ここで先ほどの「いのち=活動」説の登場だ。
そうすると「巡り続ける」は「リスナーの循環」を指すと考えられる。新しいことを始めると必ず好みがわかれる。賛否が生じる。その果てにあるのは出会いと別れだろう。
気分次第のいのちって開拓者の差し金でホラゲをやらされることを指してるらしい。
気分次第のいのち、活動をやるかやらないかはAZKiちゃんの気分次第だし、それについていくかどうかはファンの気分次第なので双方で作り上げていくものなんだなと感じた。もちろん活動の全てがそうではないと思うが。

2サビ


最後まで私のこと見届けてくれるの?
縋ってしまいそうなの わかってよ わかってよ ねぇ
「本当の気持ち」(真実)を繋いだら もう二度と戻せないのに
君が忘れちゃったら 私は居なくなるの?

旧版の歌詞は「覚めてしまいそうなの」だ。
縋るという言葉の意味を改めて調べると「助力を求めて頼りとする」らしい。縋るのは誰にだ?ファンか?ファンかなぁ…
で、この後。「本当の気持ち」(真実)。本当の気持ちと書いて真実と読ませるらしい。やば…
こういう活動には多かれ少なかれ言えないことがあるだろう。水面下で進めてる企画や仕事のみならず、事情や、自身の想いすらも。
この歌詞を聴いた時、これは恐れだと考えた。この恐れには2つの意味があるという解釈を提案する。

  1. 真実を伝えたら活動が損なわれるという解釈。
    直球で言うと契約違反。或いは真実を伝えることで他の誰かのと関係性に亀裂が生じるという恐れ。これ以上は言いません。

  2. ファンの動向を気にしている解釈。
    本当の気持ちを伝えることでファンが付いてくるかどうか、或いはそれに関わらず、伝えることで以前の関係性を少なからず維持できない、もう二度と戻せないと恐れている。

個人的には2の解釈を推したい。なお、両者に共通しているのは「本当の気持ちを伝えることがいのち=活動を脅かすリスクを内包している」ということだ。前者は当人が、後者はファンが居なくなり、忘れられてしまうという構図だ。

この後の「またね バイバイ。」は1サビの終わりとほぼ同じように聴こえた。

追記:
歌詞が公表された。
なんと驚くべきことに「私は居なくなるの」に「?」が付いているではないか。ファンの記憶からいなくなることでAZKiという存在が居なくなることに対して疑問を呈している。この後の文脈を加味すると当然答えはNOだ。NOだという解釈で曲が展開していく。
ここが明らかに分岐点だ。
旧版から地続きの中で、明らかに考え方が変わっている。
考え方が変わったのは5年の活動を通してだろうか。
彼女自身の「いのち」に対する解釈が変わったのはもしかしたらファンの応援の影響もあるのかもしれないと思うとなんかいい感じである。

C1

名称合ってるんですかね?音楽家じゃないので詳しくないです。

生き急いだあの日を 軽く弄らないであげて

あー、これ、ルートβだ…と思った。
生き急いだあの日をこれまでの活動とするのは全然アリだと思うが、”生き急いだ”という点に着目すると特にルートβのことだろう。ルートβはAZKiちゃんが活動を続ける決断をしてからホロライブへの移籍を経て、メジャーデビューを発表するまでの間の期間だ。詳しく知りたいという人は↓の配信で流れる動画を見てほしい。

上の動画内でも軽く語られているが、ルートαでのAZKiちゃんにはプロデューサーをはじめとした、プロジェクトのスタッフという道標があった(らしい)。そこからルートβに移行し、特にホロライブに移籍してからは配信や活動をある程度自分の裁量で進めていかなくてはならなくなったと配信内で語っていた。その中でどう活動したらいいかわからないながらも必死に配信者AZKiとしての配信や活動を模索してきたのは、間違いなく「生き急いだあの日」だろう。
その後の「それが生きる糧になるから」は、文字通りの意味だと捉えた。大変な想いをした経験があるからこそ今の配信が出来ているのだと感じた。AZKiちゃんは真面目で努力家で研究熱心ですからね。

C2

最後まで私も生きているかわからないけど
君がくれた言葉は確かに残ってる

ここのアコギが好きすぎる。

私”も”…?一瞬記憶が錯乱するが、助詞は助詞だ。
それ以上でもそれ以下でもない。

わけがない。

一文字でも歌詞が変わったのならそこに曲解意味を見出すのがオタクである。では考えていこう。といいつつも深く思考を巡らせる必要はない。
「私が」ではなく「私も」に変わっただけだ。つまり、「最後まで生きているかわからない」のはAZKiちゃんのみならずファンも同様であるということである。
では、”最後”とは?AZKiちゃんの活動の終わりだろうか。
彼女の活動が終わるまで、ファンが居なくなっても、かつてファンが彼女に手向けた言葉は彼女の中で残り続ける。
ならば逆も成立するだろう。
ファンのいのちが尽きるまで、AZKiちゃんがくれた言葉は思い出は、感情は残る。それはファンとして卒業する=離れるまでのみならず、文字通り人生の最期までどこかに残っているだろう。それは図らずも、AZKiちゃんが忘れられていない=居なくなっていないということになるんですよね。いいよね…いのちというものが一方向性から双方向性になったように思う。

ラスサビ

最後まで私を覚えていなくてもいいから
いつ死んでしまうだろう わかんない わかんないよ でも
今君が笑えたこと それだけで意味があること
君が忘れちゃっても 私は死なないから

は???????????????????????????????????????????????

ビビった。完全に豆鉄砲。
最後まで覚えていなくていいんだ…

まず好きなことろ。
「わかんない わかんないよ でも」の「でも」
AZKiちゃんにしては珍しく力強い歌い方が心に残った。
歌い方の強さは意志の強さだ。想いの強さだ。
文章題では逆接の後の文は重要だと進研ゼミで学んだ。
「私は死なないから」
ここの歌声も力強い。これは紛れもなく彼女の命が宿った言葉だと感じた。

もはや彼女は忘れられることを恐れなくなった。
ちょっと違うな。ではこう表現しよう。

いずれ来たる別れよりも、今の想いを大切にするようになった。

今この瞬間AZKiちゃんを通して君が笑えていることに意味があって、それはきっと君の中に残り続けて。もしも君がAZKiちゃんを忘れてしまっても、想い出はなくならない。君が笑えたあの日はなくならない。

ここまで書いて漸く気付いた。
「生き急いだあの日を 軽く弄らないであげて
それが生きる糧になるから」
これってファンの視点の解釈もできる。

未来の自分へ、必死に誰かを応援していた日々を、確かな熱をもって生き急いだあの日を惜しまないであげてほしい。
もし仮に忘れてしまったとしても、その時過ごした時間も、楽しかった感情も、貰った言葉も、受け取った元気も。
未来で生きている自分の礎の一つになっていることに変わりはないのである。
その中で、AZKiちゃんは心に残り続ける。だから「君が忘れちゃっても私は死なないから」なんだな、と思った。

ちなみに、この部分を聴いて考えて頭に浮かんだのはこの配信。
配信内で最終的に真相は謎のまま終わってるけど私は好きですよ、このルートの物語。

最後の「またね バイバイ。」を聴いた時、やさしく微笑みながらこちらに小さく手を振るAZKiちゃんの姿が見えた。これは決して後ろ向きな別れなどではない。例え別れてしまっても、いのちのような夢から覚めてしまっても、AZKiという歌姫は、真面目で、しっかり者で、優しくて、開拓者のことが大好きで、たまに抜けてて、ダジャレが好きで、時々ヤンデレで、絶望的にシングルタスクで、よく飯テロをしてきて、苦手なホラゲも頑張って挑戦して、地図と歌が大好きな彼女は誰の心からも居なくならない。
そんな気がした。

まとめ

これ感想じゃなくて考察ポエムじゃね?

さて、旧版では私は「いのちとはAZKiの活動生命である」「人々の記憶に残り続けることでAZKiは生き続けることでいのちは尽きない」と解釈した。
それが新版で「いのちとはAZKiの活動生命であると同時にファンの活動生命であり、それらは互いに影響を及ぼす」「AZKiがファンの心に残り続け、ファンの言葉がAZKiの中に残り続けることで共に過ごした想い出は忘れてしまっても消えることはない」に変わったのだと感じた。

2024/05/01追記:ポジティブな共依存について
旧版をポジティブな共依存であるとするならば、新版も同様だろうか。
回答は否だ。ファンとAZKiちゃんは確かに互いが互いを支えあっている。
しかし、忘れることを恐れなくなった我々の関係性はもはや共依存ではないだろう。
有り体に言えば信頼や絆と言ったところだろうか。
なんかいい感じの言葉で締めたかったが、どうにも思いつかなかった。

この考察が当たってるかどうかは厭わない。現文の試験じゃないんだから正解は無いし、当たったとことで名探偵と称賛されるわけでもない。誰かの感情を鼻高々に邪推する趣味は生憎持ち合わせていない。
これはただの感情の備忘録だ。

以上です。
ここまで読んでくれたキミは余程の物好きだ。ありがとう。

MVとAZKiちゃんの同時視聴配信楽しみですね。
それでは、おやあずき~zzz


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