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白昼夢

 優しい春風が戦ぐ陸奥の地に、『雪村の里』と呼ばれる場所があった。

「いいか薫、私たち男鬼は女鬼を守ることが使命だ。
鬼は人間より力があって優れている。少しの傷ならすぐに治る。だが、女鬼は傷の治りこそ早いが、男鬼ほどの強さはない。傷を負えば皆等しく痛みを感じる。私は母様と里の人たちを、おまえは、千鶴を。いざというとき、おまえは守ることはできるか?」
 諭すような口調で、優しく、しかし威厳を持って語る父。
「はい、父様!」
「あぁ。いい返事だ」

 父は厳格な人ではあったが、同時にあたたかさと優しさを持った人だった。

 薫の返事に目元をほんの少し綻ばせると、刀掛けから二本の刀を取り、薫と自分の間に置いた。
「これは雪村の家に代々伝わる対になる二本の刀だ。小太刀は小通連、そして太刀は、大通連という銘を持っている」
「しょうつうれんと……だいつうれん」
「この二振りを今は、薫。おまえに預けよう。いつか千鶴と二人、この刀とこの地のもとで、里を守るのだよ」
 確かに手に握らされたその二本の刀には確かな重みがあって、薫はその重みを、自分が"まもる"小さな妹に重ねた。可愛らしく、愛らしい、自分のかたわれに。

「にいさま! とうさま!」

 不意に、簾の隙間から鈴を転がすような声が響く。薫にとって、そして彼の父にとっても、愛しいひとりの少女の声が。

「千鶴! 今父様はぼくと大事な話をしてたんだ! 用があるなら早くっ」
 千鶴の存在は、とても愛しく大切なものではあるのに、ここ最近兄の見栄でよくこんな風に悪態をついてしまう。

「あっ、ごめんなさい……お話そろそろ終わったかと思って、兄さまと遊びたくて……」
 薫の声に怯んだ千鶴は小さな体をいっそう縮こめて言い淀む。

「良いんだ千鶴、丁度話もひと段落着いたところだ。薫と二人で遊んで来なさい」
「本当? 父様ありがとう! 行こう兄さま!」
「あっちょっと、おい!」
 そう言うと止める間もなくひょいと千鶴は薫の手を引いて外へ出てしまう。
 行き先なんて勿論決めていないのに、既に決まった道を進むかのように、軽快に進んで行く。
「……千鶴、千鶴! ……まったく」
 そう言うと、薫は何処か父に似たその目元を綻ばせて千鶴の後を追ったのだ。

***

 あかく、赤く、紅く、燃えていく。染まっていく。足元には無惨に焼かれ、事切れた者の骸が幾つも転がり、少し呼吸をしただけで、喉が熱で焼かれるような心地になる。

 ——あつい、くるしい、つらい、つらい、

 ただ只管に、そんな言葉が脳内を渦巻く中、両腕にずしりと重みのある二本の刀を抱え、ひた走る。

「千鶴、どこにいるんだ?! 千鶴——」

 まもると、まもることができると約束した。ぼくは男鬼だから、ぼくは強いから、まもらなきゃいけない。小さな愛しい妹を……。

「……ぃ、ま」
 微かではある。だが声がした。聞き間違えるはずの無い声が。
「千鶴ッッ!」
 酷く細い呼吸を続ける彼女がそこにいて、見つけたことに安堵感を感じたが、もちろんそれだけではいられなかった。
 どうしたら……ここからどうしたら動けるんだ——と。
 脱出を試みようにも自分と変わらない身丈の妹を背負う力は今の薫には殆ど無いようなものであり、その上まだ外が安全かどうかがわからない。
 視界いっぱいに広がる炎は薫の中に恐怖を植え付け、その恐怖が沸々と憎悪に変わっていく感覚を薫は静かに感じていた。こんな状況だというのに頭だけが嫌に冴えていて、状況を飲み込めば飲み込むだけ自分の無力感を感じるこの一瞬の間が、それこそ永遠にも思えるのだ。
「ゲホッ、カッ、ゴホッ」
「⁈千鶴! しっかりしろ、大丈夫、大丈夫だから……兄さんがついてるからな、だから、大丈夫、大丈夫だ……」
 どこまでが声になったのかはわからなかった。今ここを動くことだって危険だということもわかっていた。

(それでも……)

 自分は助けなければ、護らなければいけない。
 小さな肩に二本の刀を紐で提げ、妹の細い腕を回すと、燃え盛る火の中、力なく横たわる骸を避けながらあてもなく歩き出した。
 火のない方へ……火のない方へと。
 大丈夫、大丈夫だと繰り返す声にならない微かな声は、次第に妹に向けたものなのか、自分に言い聞かせている言葉なのかはわからなくなっていたが、そんなことは気にせず歩き続ける。

「……、っはっ……」

 漸くほんの少し煙と炎が少ない場所に出て、呼吸に少しの余裕が出たように思えたときだった。
 視界がぐらりと揺れたと思うと、頭は勢いよく硬い平面に付いていた。体を起こすどころか、指先一本動かすことももうかなわないことを悟った。
(千鶴……千鶴は?)
 安否を確認しようにも倒れた拍子に肩に乗っていた彼女の重みは感じることができず、既に少し離れた位置にいることを知らされる。
 絶望——という文字が頭をよぎるのと同時に意識が薄らぐ感覚を感じたときだった。

「まだ人がいるのか? 大丈夫か?」

 人の声がした。終わった、と思った。身体はもう碌に動かない。声も殆ど出ない。里の人間は殆どが炎に呑まれてしまった。となると外にいると考えられる里に火を放った犯人たちの誰かだ。見つかってしまえば間違いなく自分たちは良くて捕らえられるか、最悪殺されるか、だ。

 人の声は段々と近づいてくる。
「私は医者だ。君たちに危害を加えることも、傷つけることもしない。さぁ、こっちに来るんだ」

(あぁ、もう駄目だ。なんとか千鶴だけでも“俺”が、俺が護らなくちゃ……)
 近づいてくる人間がどんな声で、どんな顔をしているのかなんてわからなかった。ただ、もう一体どこから湧き上がっているのかがわからない力で立ち上がった薫は、男を強く睨みつけ、男と千鶴の間に壁になるように割り入った。

 医者と名乗る男は一瞬怯むような素振りを見せたが、そこで止まることはせず、薫と、その奥の千鶴を見つめ、静かに歩み寄った。
「あぁ、こんなに小さい子どもをこんなにボロボロにして、それだけではなくこんな目をさせてしまうなんて……なんて惨いことをするんだ。立てる……状態では無いね。少しかかるが身を隠せる場所が近くにある。大丈夫だ、もう少しだけ、こらえてくれ」
 立っているのがやっと、という状態だった薫は彼の背に背負われ、千鶴は腕に抱かれる形で、その場を足早に後にした。

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