夢の道中
「はぁ…はっ、ぅ………」
荒い呼吸を幾度となく繰り返す。数日間かけて歩き続けた脚は既に棒のようで、ここへ逃げる前に『童子切安綱』——あの、有名な鬼切の刀によってつけられた傷から溢れ出る血は、応急の手当てはしたものの、最早おさまることを知らず、薫の通った道はその血によって赤く染め上げられていた。
もういつ息絶えてもおかしくないようなこの状態で歩みを進めようとする自分が心底哀れに思える。
『馬鹿だよなぁ……』
そんな言葉が口をつこうとも相槌を打ってくれる相手も、否定してくれる相手も薫のそばにはもう居らず、時折頭を掠めるのは、ほんの数日前に土佐藩邸で会った、俺と全く同じ、妹の顔だけだった。
雪村家が再興できれば形はどうあれ、彼女は……千鶴は、俺の元に戻ってきてくれるのだと。もう一度幼い頃に過ごしたあの平穏で幸せな日々を、自分たちの『里』で送れるのだと。
心のどこかで、そう信じてやまない自分がいたのだ。
『……兄さんの望みは、何なの?』
不意に千鶴があの日、自分に尋ねてきた言葉が耳元で木霊する。
そうか、俺の本当の望みは……
そう思った瞬間、鼻腔を懐かしさを思わせる香りが掠め、木々が、地が、空気が、薫のことを出迎えるような、ひとりでに心が安らいでいくような感覚に襲われ、口元に小さく苦笑を浮かべる。
「……こんな時でも、こんな俺でも、受け入れてくれるなんて、皮肉だよなぁ」
腹部の傷に痛みが走るのを感じながらも、誰にも届かない言葉を独り言つ。
雪村の里。
そこは、薫が目指していた場所だった。
尤も、自分たちが過ごした頃の痕跡など、とうの昔に跡形もなく焼き払われてしまっている。だが、その場所は紛れもなく自分が訪れようとしていた場所だと、薫にははっきりと感じられた。
視線をゆっくりと回し、かつて過ごしたその里を自分の目で見渡していると、少し小高くなった丘に目が止まった。いや、正確にいうと、そこに咲く小さな花に目が止まったのだ。
薄紅色のその花は、まだ里で暮らしていた頃、薫が千鶴に花冠にして送ったものとよく似ていた。あの後、薫は女鬼である千鶴を連れ出してあの場に向かったことを両親に咎められ、千鶴にいくら頼まれても後にも先にもその一度きりしかその花畑へはつれて行かなかったのだが——。
遠い記憶を思い起こすように、薫はあの時千鶴に伝えたのと同じ言葉を……、徐々に乾いて冷たさを増していく唇を動かして呟く。
「僕は、男鬼なんだから——、女鬼を、千鶴を守らなきゃ、な……んだ。おまえを守って、おまえさえ、無事でいて……幸せでいてくれれば……」
あぁ、そうだ。俺は初めから、きっとこれだけ望んでいたんだ。
———千鶴。
『 にいさま 』
少し離れたところから、まだ幼い頃薫を呼んだ愛しい妹の声が聞こえたような気がした。
雪村の里に吹く、やさしく、ほんのり懐かしい風を感じながら、薫はゆっくりと目を閉じたのだった。
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