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映画『ツレうつ』を観て、「できない」と居場所について考えてみた

健やかなるときも、病めるときも。


妻の発案で、こまーと3人で一緒に映画を観た。

この映画を観るのは、独身時代以来の2回目。


物語に触れるとき、自分の人生経験や状態によって、受け取り方も、受け取れるものも変わるというけれど、結婚し、休職している今の僕にとって本作品は、とてもメッセージを強く感じるものとなった。



「できない」に向き合う


本作は「できない」に焦点を充てたものだと思っている。

電話ができない、仕事ができない、パソコン操作ができない、夫が鬱だと開示することができない。


たくさんの「できない」に囲まれながら、「それでもなおココに居ていいのか?」という居場所の話であるように感じた。


鬱病になったことを機に、職を失う。「休むことが宿題」となり、家にいる。大好きだった料理の段取りができなくなり、味もわからなくなる。できない、できない、できない。

できていたはずのこと、だからこそ果たせていた役割、そうして得られていた居場所、そしてアイデンティティ。


人に求められ、役割を果たすことで帰属場所を得られていたこと。好きなものを好きに楽しめていたからこそ保てていたアイデンティティ。


それらが「できなくなる」ことによって喪失していく。居場所が次々に、崩れていく。


自分が自分でなくなっていくようで、存在が揺らぎ、死ぬような生理的な恐怖を感じる。



それでもなお、ツレには居場所が在り続けた。パートナーがいて、気にかけてくれる同僚がいて、親族がいて、病院でたまたま知り合った闘病仲間がいて。でも、彼の意識のベクトルは、自分の内側に向き続けていたように思う。



「申し訳ない」を繰り返す姿に、「居場所」であったはずの関係性が、重たい鎖に変わって見えていたように思う。


「居場所」に必要な要素


「居場所」には、自分がそう信じられている、という要素が必要なのだろう。

気にかけてくれる人たちがいて、そこに居ていいと愛を向けられてなお、「役割を全うしなければ」「できなければ」それを受け取ってはいけないのだ、という呪いは、とてもとても強固で。


その呪いを解く鍵は、自分が鬱である、という現在地を認め、周囲を信じ、そうして「自分のために治りたい」と決意することにあった。



たとえ「鬱病」じゃないとしても


これは、鬱病に罹患した闘病者だけに閉じられた物語ではない。


多かれ少なかれ、僕たちは、「できない」に向き合い、自身のアイデンティティを握り、居場所を求めて生きている。


自分がここにいていいのだ、と安心して生きられる日々を、そう確信をもって行動を選べる日々を、求め続けて生きている。


「できない」を受け容れ難い


僕は、自分の「できない」を受け容れられない性分だ。そういう側面には功罪がある。「できない」状態を脱するために、はちゃめちゃに行動に駆り立て、努力を積み、「できる」自分として人の前に立つ。



体力があり、独身で、自分のエネルギーを「成長への努力」にフルベットできる時代には、その性分のおかげで、グングン成長した。


一年の間に7回倒れて病院送りになるようなストレスを抱えながらではあったけれど、たくさんの「できる」を獲得した僕に、「ここで生きていくことを許される」という自信を授けた。



コンサルタント時代の僕は、「知らない言葉」に出会っても、その日の帰り道で本を買い、付箋だらけにして読み終えて、次の日にはそれを語れるようにして生きてきた。



「ランチェスター戦略?(今日初めて聞いたけど、)明日には図解して配布資料にしますね」


自分にとっては当たり前のそんな行為・行動が、暴君のような上司の目に留まり、「お前すげぇよ。机の上の付箋だらけの本を見ればわかる。」そんな風に、「見てもらえていたこと」がたまらなく嬉しかったことを覚えている。



そうだ、「できる」ことが、「できるようになるキャッチアップ力こそ」が、僕のアイデンティティで、強みで、ここに居ていい理由なんだ。




10年あまりが経った今。

僕には自分以上に大切な家族ができ、年をとり、暮らす環境も変わり、使えるエネルギーのルールが変わった。

それでも、僕の中にある古きOSは変わらずに残っているのだ。「できない」を認めることが死ぬような怖さをはらみ、人を頼ることを拒み、抱え込み、注げるエネルギーが足りないから「できない」まま明るみに出る。


そうして、身を焼かれるような辛さで心が焦げ付いていく。



「できない」を「できる」に変えてきた構造は、今や僕の掌にはない。あったとしても、選びたい選択肢ではなくなっている。

休職に入る前の僕から漏れ出た言葉は、「成長なんか要らない。もうできることなんか増えなくていい。」だった。



「できない」は、僕らに等しく与えられた宿業


かつて出来ていたことが、できなくなることの喪失感は、重たく僕らにのしかかる。ツレが「僕は、電話はできないよ…」と語るシーンに、胸が苦しくなる。


でも、僕らは否応なく、この苦しみと出会っていくのだ。人は老いる限り、喪失は運命づけられた宿業だ



それでも、(主観的には)死んでしまうような苦しみをはらむ喪失であっても、僕らはすべてを失うわけではない。手放した余白に、これまでは握れなかったものが舞い込んでくる。


「できない」ことを認めたならば、他の方法を模索することに目を向けられる。


「できない」から、それをしない分、できることが見いだされていく。それは、行為することに限られない。行為しないがそこにいる、そこにいる中で在り方を選ぶ、その姿を見せるそれだけでも、価値なんていくらでも生まれるんだ。



そこに価値を見出そうとする人がいる限り。それはきっと、居場所になる。



「できない」に意味を見出す


「役に立つより、意味がある」



山口周さんのそんな言葉を思い出す。意味を見出すことに、価値が見いだされる時代だ。


きっと、「在り方」それ自体が僕らをより生きやすい居場所に連れて行ってくれる、そんな時代になってきているのだと思う。


今日は音声でも触れています。



ここまでお読み頂き、ありがとうございました!

どこか「仕方ない」と自分の生を諦めていた僕が、人生を取り戻したのは、自分の願いを知り、これを指針に生きることを選び、行動を重ねてくることができたからだなと実感します。
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